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2012-05-17 Thu 23:01
台湾を紹介する日本の番組で、必ず出てくるのが「信号が緑になると数十台のバイクが走り出す」場面で、きっと日本人には驚くべきシーンなのでしょう。その場面を見る度に私はちょっと恥ずかしいようなまた嬉しいような気持ちになります。というのは私も台湾の百五十万台あまりの「バイク族」の一員なのですから!スクーター歴20年を越える私は、台北市の自動車の犇く中で自在にその合い間をかいくぐり進んでいますが、バイクは停車に便利で交通費の節約になる仕事の上でのグッドパートナーです。 ![]() バイク族にとって、傍へ突進してくるバス、タクシーは最大の脅威です。排気ガス、風や日に晒され雨に濡れることは身体への試練でもあります。唯一の癒しは四季の変化や風景を身近に感じられることでしょうか。台湾歌壇に短歌を投稿するようになってから、バイクを走らせている時に目にする空の雲の移り行く様や、遠くに見える山山、花や草木、様々な人々の群れなどが全て歌への霊感を与えてくれるものとなり、信号待ちの時などはそれを三十一文字にまとめたりします。 毎年3月から5月は紋白蝶の活動する季節で、その昔「胡蝶の王国」と呼ばれた台湾には四百種類以上の蝶の品種がいて、中でも紋白蝶は一番数の多い品種の一つです。台北のような大都市の通りや巷にも飛び交う可愛い姿が見られます。 ![]() ![]() バイクで走るとき遠くに白い蝶の姿を見ると、まるで空中で雪の花が舞っているようです。また赤信号のときにバイクを止めて道の辺の草花の中で戯れる蝶を見るのは最高の安らぎの時です。当然蝶にとっても危険な車の群れに紛れ込みやすいことになります。 台湾では、毎年4月から5月に百万単位のムラサキマダラが北上しながら繁殖することがよく知られています。ハイウェイの彰化県林内のあたりはムラサキマダラが北上する時通る「蝶の道」になっており、その季節には一分間に万を越えるムラサキマダラが飛んでゆき、スピードを出して進む自動車にぶつかってたくさんの蝶たちがよく死にますので、蝶の安全を守るために、台湾高速公路局では毎年「周期的に外側の車道を封鎖して、紫外線の灯で誘導して道に予防ネットを設置する」などの措置を採り、蝶の季節ごとの移動に道を与えています。当時の宣伝文句に「ムラサキマダラに道を譲れば、ムラサキマダラは毎年ひらひらと舞いながらお礼をしてくれる」というのがありましたが、心打たれる美しい話です。 でも都会で単独に飛んでいる紋白蝶はそんなに良い待遇はなくて、スピードを出して突進してくる車が巻き起こす風に吹き飛ばされたり、ぶつかりそうになる時には、その身の安全を思って冷や汗が出ます。 このように春にはいつも目にするものですが、4月14日に、バイクで信号待ちしていたとき、バイクの群れの中に風に乗ってひらひらと紋白蝶が漂ってきて、私のバイクのハンドルにふわっと止まりました。春風がつれてきたこの客に私は驚喜しました。頭を上げてみると、あと数秒で信号は緑になります。でもエンジンをかければ蝶は驚いて飛び去りますし、どうしたらいいかと……。それから蝶が飛び去るのを見送りながら、車に巻き込まれないで無事に飛んでいって欲しいと願いました。 この蝶との出逢いで、三宅教子さんが短歌の指導のときに言われる「短歌は日常生活の中にあります」という言葉を思い出し、帰ってからあの時の感動を短歌にしてみたいと、限りある私の日本語の語彙で一晩考えて、やっと一首にしました。でも言葉の順序をどうしたらよいか迷い、三宅さんに次の歌の添削指導をお願いしました。 ハンドルにしんと佇む春風の贈りもの白蝶(ちょう)よ発車躊躇ふ 春風の贈りもの白蝶(ちょう)よハンドルにしんと佇む発車躊躇ふ 三宅さんからこのような返事がありました。 『あなたの短歌、素敵な一瞬を捉えましたね。ちょっと、直してみました。 ○ 春風に乗りて白蝶ハンドルにふはり止まれば発車躊躇ふ 春風の「贈り物」という表現もいいのですが、状態を詠んだほうがいいと思います。また、しんと「佇む」というのは何となく、人間が立っているような感じですので、「ふはり止まれば」にしてはどうでしょうか。とてもいいお歌です。』 うわあ!三宅さんのお褒めの言葉に心の中で思わず「やった!」と叫びました。彼女の説明を通じて短歌表現の方式と、「しんと佇む」の意味を学びましたし、「ふはり止れば」に変えたら歌全体が軽やかに漂う感じで、実に不思議です。いつも三宅さんの添削を受けた後は、私の歌が素敵な歌に変身しますが、今度もまったく私の心にぴったりするものになったので、この短歌を四月の詠草として投稿しました。 台湾歌壇の詠草は投稿規程が毎月の例会(毎月の第四日曜日)の一週間前までで、ハガキやファックス、またはE−メールで三宅さんに送ります。彼女がプリントに整理してコピーし、歌会で配ります。月例歌会で選ぶ歌は、二枚の紙が配られて、出席した人は詠草プリントの中から二首を選んでその紙に番号と同鳴と添削などを書き込み、時間になるとそれを各自が順番に発表します。 ![]() それから北島徹顧問が短歌指導のお話をなさり、その後を三宅さんが作者の名前を発表し、その月で最高得点の出席者に、日本から送られてきた短歌結社の歌壇誌や関連発行物を賞品として渡します。例会が終ると各自が選んだ歌評を出席して居る人に手渡し、或いは三宅さんに渡して、欠席者に送ってもらいます。 ![]() ![]() 4月22日の月例歌会では思いもかけずに私の歌が5人の先輩達の共鳴を得ました!私の歌が選ばれて歌評を聞くときに顔がカッカと熱くなり、恥ずかしくて隠れたい気持になって、先輩方が評をなさる内容をきちんと聞けませんでした。以下はいただいた歌評のメモです。 まずは麗しい陳瑞卿先輩の歌評です。 『58番を選ばせていただきました。春風に乗りて白蝶ハンドルにふはり止まれば発車躊躇ふ 同鳴点は古(いにしへ)から恋物語には蝶々が付き物でロマンチック・・・。さて、ハンドルに止まりて作者に何かのメッセージかも・・・』 北島徹顧問の奥様、やさしい北嶋和子先輩の歌評は次の通りです。 『最近公園等で色とりどりの花に白い小蝶がひらひら飛びかう姿がよく見られます。その度に何とかわいいのだろうを思っておりました。そんな白い蝶がハンドルにとまったら、私でも発車できず、みとれてしまうだろうと同感しました。』 歌壇の元老、いつも優雅な感性をもつ言葉で歌評なさる林聿修先輩の歌評。 『春風の中を颯爽とマイカーを駆る作者を慕いて舞い込んだ白蝶にあら! と一瞬戸惑いを覚え乍ら、胸もときめいたでしょう。まるで「少しお話しましょう」とでも言いたそうな白蝶に・・・、つくづく発車を躊躇われた作者のおやさしさと笑顔が思い浮ばれ、すがすがしく微笑ましい思いで読ませていただきました。』 18歳の時の勇敢な経歴(228事件の時の)を歌集で知って、心から敬愛する蘇楠榮先輩の歌評です。 『心ある人に共通のためらひです。いい瞬間をとらへて歌にしましたね。』 このところ視力がどんどん悪化されている蘇先輩は、歌を選ぶのにとても時間がかかるそうで、そのため三宅さんは蘇さんのために前もって詠草プリントを送ってあげています。蘇先輩が選歌なさるときの真面目な姿には心うたれます。 最後は私の歌の先生でもある三宅教子先輩の歌評です。 『心地よいみどりの春風に乗って漂ってきた白蝶がスクーターのハンドルにふはりと止ったのですね。発車させれば白蝶は逃げてしまいます、せっかくハンドルに休んでいるのに、発車をためらっている作者の心やさしさ、うららかな春日の中で、一瞬の詩をとらえていて、その情景と作者の嬉しい驚き、とまどいがまるで見えてくるようです。』 皆さんの歌評に私は感謝感激しながらも、短い三十一文字でもって、当時感じた事を完全に伝えることができたことは実に驚くことであり、短歌が持つ力にまたまた畏敬の念を覚えました。 選歌が終ると、北島徹顧問が四月の詠草について素晴らしいお話をしてくれました。北島先生のお話は、三宅さんがまとめて「五月の通知」の中に載せてくれます。それは次のようなお話でした。 『 先月は「プラス志向の歌を」ということをお話いたしました。今日のお歌にはプラス志向の歌が多い気がします。66番の【台湾と日本の「光」ひた求め台湾に生くるわが妹よ】の歌で、「光」が出てきます。光とは何なのかと思う事がありました。十数年前でしたか日本人学校の小学生の詩で「自分は今台湾の光を身体いっぱいに浴びている。どうしてこんなに明るいのか、それは台湾の人の笑顔を反射しているから」というような内容でしたが、台湾の人の笑顔は実に素晴らしい。 今日の歌の中にも「笑う」「笑む」が出てきます。1番の【英雄に杖は似合はぬわよと笑む瞳の奥に滾る慕情の】、6番の暁暗の散歩の小径擦れ違ふ笑顔の会釈心明るむ】、65番の休日に店を手伝ふ子の笑顔心なごみても一つ買ひぬ】このような笑顔に接するとこちらの心が明るくなります。歌にはつらい事、悲しいことを何でも詠って心が晴れる、慰められる作用はあります。それでももう一つ積極的に前向きに歩こうとしている姿は美しいものです。 日本の「咲く」という字はもともと「笑う」という意味で、私の娘は「咲榮」と書いて、「さきよ」です。その意は「花がいっぱい咲いているような笑顔をふりこぼす」で、そのとおりの娘になりました。花が咲いているのに接すると心が明るくなりますが、「咲く」というのは心に笑いかけてくれると受け取るのです。花が咲くのを詠った歌も多くて、これも私たちの心を明るくしてくれます。14番の【朝摘みて胸に飾りしペンダント香りも高き玉蘭の花】これも玉蘭のペンダントによってどんなに自分の心が楽しくなったか。 私たちの心を明るくしてくれるものを詠うと、読んだ人にも伝わって連鎖して拡がってゆきます。55番は「夢の国なりこの台湾は」と詠って、歌に力が籠っています。最高点の37番こんな前向きの歌はありませんね。大いに夢を見ましょう。』 作者を発表後に、三宅さんは今月の最高得点は、8点入った呉炎根先輩の歌ですと発表されました。その歌は、 ○ 我も欲しやおいらくの恋夕やけのやうに美しくやさしい恋を 「8人もの人がこの歌を選ばれたということで、皆様が心に願っている事が分かりますね」と三宅さんが言ったので、みんな爆笑しました。また「呉炎根さんは台南にお住まいですが、お電話をかけたときに息子さんが出られて、お母さんを呼んでくださったのですが、随分時間がかかりました。「ごめんなさいね、歩くのが難しくて」とおっしゃっていましたが、車椅子でお嫁さんやご子息が付き添われて病院通いもなさっているようです。でも、このようなロマンチックな夢を追う短歌ができます。身体は老いていっても心はとてもお若いですね。私たちも精神を若く保って短歌を詠んでゆきたいですね」とも言われました。 次に高得点だったのは5点入った林燧生先輩の歌です。 ○ 曉暗(あけぐれ)の散歩の小径擦れ違ふ笑顔の会釈に心明るむ 林先輩は台南の人で、短歌のほかにもエッセイを書いて、日本語の「エッセイ集」を何冊も自費出版しておられるようです。散歩の小道で知らない人同士でもすれ違うときに笑顔で会釈する和やかな風景を歌に詠まれて、読む人の心まで明るくしてくれるようです。まさしく北島先生のおっしゃる「プラス志向の歌」です。 高得点のお二人が台南の方で、欠席なので、次に同じく5点入っていた私の名前が呼ばれました。賞品の歌集を受け取りに前へ出て行くとき、皆が「おめでとう!」と言ってくださって、とても嬉しかったです。みなさんの笑顔は実に素敵です!特に三宅さんから賞品を受け取ったときの感激は言葉ではうまく表現できないほどで……。 三年半前に入会した時に、初めは短歌がわからず、一冊づつの歌集の一首一首を模索してきて、次第にその意味が分かるようになって来ましたが、やはり短歌を作る心境には自信がなくていましたが、その原因は「思いが多すぎる事」で、三十一文字にはとてもこの思いをはめ込められないので、自分の言いたい事が多すぎる事に気づきました。三宅さんは「難しいことを詠む必要はなく、その時時に心の底から感じたことや感動した事、喜怒哀楽を素直に表現してゆけばいい。一首に納められない思いは連作にして何首にも詠めばいいのです」と言ってくださり、常に励ましてくれたし、また私が紹介した友人が入会するようになっても、自分が短歌を作っていないのは恥ずかしく思い、ついに昨年の8月に、台湾の政局への憤懣が噴出した気持を詠んだのが私の初詠草でした。 この国の選挙はまるで敵の罠不正な賭博に運命委ねて この一首は三宅さんが添削して完成したとき、自分の言いたい事が短歌にまとまったので嬉しくて三宅さんに電話で涙声になってお礼を言いました。それで堰を切ったように一息に四首の歌ができました。 日本語の未熟さもどかし入会し三年経っても道は遥かに 詠いたいこと多いはずという君の期待に早くわれ応えたき (三宅教子事務局長) 作歌して送ってくれれば見てあげる先輩たちの励まし嬉しい この私も短歌の作れた嬉しさに涙を流して万歳叫ぶ それからは毎月投詠するようになり、自分も台湾歌壇の一員であるという実感がし始めました。しかし台湾歌壇の先輩達はみなさん素晴らしい秀作ばかりで、私が賞品をいただける日がこようとは思っても見ませんでした。三宅さんが添削してくださった御蔭で、先輩方の共鳴を得ることができたのです。 蔡焜燦代表も励ましてくださって、あなたの今月の歌は有名な俳句に似通うところがあるよとおっしゃって、「朝顔に つるべ取られて 貰ひ水 加賀千代」の俳句を教えてくれました。この俳句の意味を知った後、とても私の歌は及ばないと思いました。その後、蔡先生は日本人をご招待なさっての宴会で、いつもの蔡先生らしいユーモアで私のことを紹介してくださるときに、「彼女、怖いよ。今月の歌会で、彼女の歌は5点も獲った!代表の私や三宅事務局長でも2点ぐらいなのに」と言ったのでみんな笑いました。実は私の短歌が進歩すれば、蔡代表は喜んでくださいます。というのは蔡代表は台湾の若い人たちが、日本の短詩型文学で力を発揮して、呉建堂師が創立した台湾歌壇を永続することを非常に望んでおられるからです。 今月の台湾歌壇の二人の若い方の歌をご紹介しましょう。 ○ 台湾をきっと守ると襟正し百合に抱かるる遺影を見つむ 舘量子 私が感動した一首です。舘量子さんの作と知ったときに、彼女に感謝感激の心が湧きました。彼女が白色恐怖時代に迫害された人の告別式に参列したときの心情だそうで、故人もきっと彼女の歌を受け取ってくださったことでしょう。 蔡焜燦代表と舘量子さん○ 生まれ来て遣り甲斐ある事遣りたしよ夢の国なりこの台湾は 何朝棟 弁護士の何朝棟さんと私は独立派であり愛日派の同志です。この歌は、彼の初出詠なのですよ! 3月に月例歌会にお客様として参加されて、帰ってからすぐ歌を作り、入会したというスピーディな鮮やかな挙動に私は吃驚しました。私は入会して3年間も無声で過ごしてやっと短歌ができたというのに。そこで何さんに冗談紛れの抗議をしました。「あなたは短歌に対して畏敬の念がちっともないんですね!」と。 何朝棟さん台湾歌壇にまた若い人が加入してくださってとても喜ばれた三宅さんは、何さんの歌を選んで、「この世に生まれきたからには遣り甲斐のあることを遣りたいと願う作者には若々しい理想が漲っています。大切なもののために生命を燃やしている作者にとって、この台湾は「夢の国」だと言うのです。ほんとうに嬉しいです。「台湾の悲哀」と言われ、「将来は強国に呑み込まれる」とか悲観的なムードの広がる中で、力強く遣り甲斐のあることを遣ろうとしている作者は「夢の国台湾」を実現してゆく大きな力になる人だと思います。」という歌評をなさいました。 歌会が終って、先輩達が私の歌にくださった歌評の紙の裏のメモにまたまた私の胸は熱くなりました。 陳瑞卿先輩は「敏慧さん、お目出度う」 林聿修先輩は「敏ちゃん!」 三宅教子先輩は「黄敏慧さま とてもすてきな一瞬を歌にしましたね」 蘇楠榮先輩は「黄敏慧様」 視力の弱られた蘇楠榮先輩が、一筆、一筆苦労なさって書かれた字の跡を見ると、言葉がでなくなりました…。 この5枚の歌評と賞品の短歌誌「あすなろ」は全部私の宝物です! ![]() ![]() ![]() 悠久の歴史の中で育まれたこんなにも素晴らしい短詩型文学のある日本に感謝します! 私に短歌を学ぶ機会を与えてくれた台湾歌壇に感謝します! ずっと私を激励してくださった歌壇の先輩方と日本の歌友方に感謝します! 私と一緒に11年間も奮闘してくれた50ccのバイクと風に乗ってやってきた紋白蝶に感謝します! 「短歌は日常の生活の中にあります」という三宅さんのこの言葉を忘れないように、三十一文字で台湾の日常の風物への感動を表したいと思います。次の目標は「バイク族の心の声」として12首詠に挑戦する事です!頑張ろう! <関連記事> 4月例會でのグッドニュースー三宅教子さんの歌集「光を恋ひて」の出版! http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-68.html 忘れ得ぬ彼の年一九四七 http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-66.html 翻れ!日の丸 http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-59.html |
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2012-05-02 Wed 21:10
今年1月に台湾歌壇の黄教子事務局長(以下三宅教子さんと称す)が、4月に個人歌集を出版すると知ったとき、とても嬉しくまた期待に心躍りました。というのは三宅さんは私たちの台湾歌壇にとって、歌壇の皆さんの心の支えであり人生を相談できる大黒柱であるだけでなく、その優美な短歌作品はいつも私たちの心を打ち、優しく善良で謙虚でありながら毅然とした正義感に富んだ性格は、私たちの心の中の「大和撫子」そのものだからです! 台湾歌壇にとってこのように大切な日本人女性、彼女と台湾歌壇はどのようにして縁が結ばれたのでしょうか?ここに彼女をインタビューした詳しい紹介があります。 「台湾にある日本を伝えたい─台湾にいきる日本人たち<2006-01-10>」 http://www.tit.com.tw/page_j/food1_1.php?id=313&key=10&tit 私が三宅さんに初めて出会ったのは、2004年「友愛会」の例会で、あの頃は陳絢暉会長の時代で、当時三宅さんは日本語の文章を朗読して、その独特な優美な声が印象深く、その時に彼女が「台湾中央放送局」で日本語放送をしているアナウンサーだと知りました。その時には語り合うことはなかったのですが、その後三宅さんと今のように深くお付き合いすることになるとは思いもよらなかったのです。ことに台湾歌壇に入会してからは、いろんな面でお世話になり、短歌のご指導を受けるほかにも、彼女の考え方や人格に深く影響を受けています。 待ちに待った4月が来て、三宅さんから「歌集が出来上がったので、皆様には22日の歌会に配りますが、あなたには先に送ります」とメールが来ました。13日に届き、急いで包みを開けてみると、淡黄色の和紙に「光を恋ひて」の題と一株の蘭の絵がとても調和して、風雅な表紙になっています! ![]() 第一ページを開くと、蔡焜燦代表の序文が飛び込んできました。 『 台湾歌壇の重鎮、台湾歌壇の事務局長としてここ数年来歌壇を支えてきた黄教子(本名三宅教子)さんが歌集を出版するに当り序文を依頼された。 二つ返事で引き受けたが、さて歌歴の先輩であり、和歌を愛する典型的な家庭に育てられ、幼少の頃には朝、明治天皇御製を朗詠した後に朝食に入る、且つ平成十一年の「宮中歌会始」の御題「時」に詠進され、入選(十人)こそ果たせなかったが、佳作十五人の一人に選ばれた方の歌集の序文をどうしたものかと、約一ヶ月迷い乍らやっと筆を取り上げた。因みに三宅さんの詠進された作品は、 楽しかる集ひの時の疾く過ぎてなべては夢のごときたそがれ である。 三宅さんから送ってきた歌集の草稿「光を恋ひて」の詠草を読むほどに「流石!」と感嘆するばかりである。年代毎に作品をまとめているので、その時代の事を思い浮べ乍ら読んで行くと、人を愛し、自然を愛し、美を愛し、祖国日本を愛し、夫君及び子供達の祖国台湾を愛し、そして光を恋しながら調べの美しい作品が続いている。 あえて取り上げなくても、読者諸氏がこの珠玉をちりばめたような作品を吟味鑑賞されたほうが三宅さんの作品のよさが更に身に沁みるであろう。作品の中で、特に私の心を打った一首を書き添えて序文と致す。 わが胸を打ちてしめらふ春の雨せつなきほどに桜を見たし 台湾歌壇代表 蔡焜燦 』 蔡代表の序文は実に簡潔で力強い文です!目次を見ると、三宅さんの作品は年代別に紹介されていて、1977年から2012年までの35年にわたる歳月の「思い」がすべて短歌になって現されており、賛嘆と羨慕の至りです。一ページずつゆっくり読んでいくのがもどかしくて、いきなり歌集のあとがきを読んで、表紙の「光を恋ひて」の題字が、「不二歌道会」の福永眞由美先生の揮毫であり、一株の蘭の絵は、台湾で尊敬を集めておられる「奇美実業」の創設者である許文龍先生が描かれたことを知りました!許文龍先生までこうしてお力添えなさっておられるとは「さすが台湾歌壇の黄教子先輩!」と感じ入りました。本当に晴れがましく嬉しい限りです。 4月22日台湾歌壇の月例歌会のときに、4月の詠草を渡す時に三宅さんの「光を恋ひて」の歌集を会員の皆様にお配りしました。みなさんは三宅さんが歌集を出版されたと知って、賛嘆と喜びの笑顔になられました。 ![]() ![]() 主役が現れると、先輩達は次々と彼女にお祝いの言葉をかけ、一緒に写真をとりました。 ![]() ![]() 食事の時間を利用して、蔡焜燦代表が三宅さんが歌集を上梓されたことを話されました。 ![]() ![]() 4月の詠草でとても感動した歌があります。それは、 ○ 台湾と日本の「光」ひた求め台湾に生くるわが妹よ 三宅さんの二番目のお兄さん三宅章文さんの歌で、台湾歌壇の会員でもあります。この方の歌には、日本と台湾を愛する短歌が多いのですが、この歌にはお兄さんが妹を思う心と兄としての喜びが伝わってきます。 三宅さんの今月の詠草は、 ○ 一冊の歌集残ればそれでよし後は余生ぞ無為に生きたし この歌は三人の人が選びました。その中で劉心心先輩は、歌評の時に「これは三宅さんの作品だと思うのですが、ご出版おめでとうございます。でもこんな素晴らしい歌集が一冊だけでいいなんてもったいないです。この後も引き続き第二冊目、第三冊目と発行してくださいよ」とおっしゃって皆さんから拍手を浴びましたが、実に皆さんの心の声だと思いました。 皆さんの期待に対して、三宅さんの考えを聞いてみました。 『 第一歌集を出すのに三十数年かかりました。5、6年前から纏めようと整理し始めたのですが、何かと忙しくて途中でストップしたりして遅れてしまいました。最近しきりに気になり始めて、台湾で生活するようになってからの歌を纏める事で今までの自分を省みたかったことと、日本語世代の先輩方に読んで頂きたいという気持も強くありました。 初めのうちは異郷で心細く、ホームシックになったり、不安な思いで過ごしたりして、私は一人の弱い人間ですから波のまにまに浮き沈みしながら過ごしてきました。でもその時時に短歌があったことで、どれだけ励まされてきたかわかりません。それがなかったら、寂しさや不安におぼれてしまったかもしれませんが、短歌が心の支えになってくれました。 子供達の幼かった頃の歌もあり、やはりその時にしか詠めないものがあるわけで、短歌が残ったことで、その当時の心境が鮮明に蘇ってきます。写真や日記とはまた異なる感慨があり、短歌を続けて来てよかったなと思うのです。難しいことをよむ必要はなく、その時時に心の底から感じた事や感動した事、喜怒哀楽を素直に表現していけばいいのだと思います。 私は平凡な人間ですから、一冊の歌集が残ればそれでいいと思っています。しかも序文を蔡焜燦代表にいただき、表紙の絵を許文龍先生にいただき、題字は私が少女の頃から姉のようにお慕いしている福永眞由美様にいただいたのですから、私にとっては一生涯で一番大切な宝物になりました。これ以上の幸せはありません。これからを「無為」に過ごしたいというのは、これからはできるだけ自然な心で生活したい、自然に添った生き方をしたいと思うのです。その中で短歌が生まれればそれが一番嬉しいです。』 彼女の話を聞いて、私は短歌の力というものを更に深めたような気がしました。また、三宅さんの歌集のあとがきに書かれている文章を読んで、私は目頭が熱くなりました。 『 祖国を離れて「あなたは日本人ですか?」と問われて、「はい、私は日本人です」と答えているうちに、自分に「日本人です」と言える何があるというだろうかと、それはそれは心細い思いにとらわれてしまいました。(中略) 台湾の日本語世代の方々と一つの時代を共にすることができ、どれだけ多くのことを教えていただいているかを思うと、感謝でいっぱいです。台湾歌壇の皆様と共に短歌を研鑽し合うことのできる環境に生かしていただいていることを神様に感謝しつつ、台湾に日本の伝統的な短歌がこれからも生き続けられるように心より願っております。』 台湾歌壇の日本語世代の方々にとって、三宅さんは何物にも替え難い人です。歌壇の事務上での様々な出来事をその肩に担っておられ、また先輩達が彼女を頼り大切になさる様子を見て、私は常々、三宅さんはきっと神様が台湾の苦難の時代を嘗め尽くしてきた日本語世代の方々に使わされた人だと思うのです。後輩の私はこのような大和撫子の女性が台湾へ来られて、先輩方の心を和めてくださる事を非常に感謝しています。でも、彼女が台湾へ来られてから、親を思い、祖国を思う短歌を読んでゆくと、何だか心が疼いてくるようで・・・ 愚痴ひとつ言ふにはあらねど母の瞳に湛へをりたり深き寂しさ 別れとは知らではしやぐ幼な子は祖父母に向かひてバイバイと手を振る 永遠の別れにあらず海を隔て遠く住むといふのみのこと われの身のことは思はず今はただ老いたる父母の嘆きぞ悲しき 笑顔をば忘れず夫に尽くせよと歌を寄せたりたらちぬの母 病みたまふ母を案じて今宵眠れず夜空に澄める星を見つむる 翼あらば飛びてゆきたしこの夜を母の枕辺に添ひてをりたし 母の漬けし梅干し食めばほろほろと涙こみあげふるさと思ほゆ 父母はさびしくあらむと語るごと文書き続く日々のことども ふるさとの国にやさしき兄等ゐて父母守ることのうれしき よしやわが子らは異国に育つとも故郷の国語らざらめや 親族の訃を聞きたる日ひつそりと異郷の神に線香を上ぐ 日本家屋改造したる茶坊にて異郷に祖国の詩歌を語る 「光を恋ひて」は年代順に35に分かれており、今第7まで読んだところです。三宅さんは「私の歌は日常生活の中で感じたものがほとんどです」とおっしゃいましたが、確かに三宅さんが台湾の社会を描かれる短歌は、私も早期に一緒に経験した事柄を髣髴とさせてくれます。また彼女はこの歌集を出された後の人生を無理せずに自然に過ごしたいそうですが、その洒脱な心境を羨ましく思うと同時にやや寂しいとも思うのです・・・ このように貴重な優れた歌集の作品を、機会がありましたらこのブログで是非ご紹介したいと思います。とにかくこの度の歌集ご発行、本当におめでとうございます! 三宅さんが「台湾国際放送」で番組製作しておられた「フォルモサ便り」の一部は台湾国際放送で今も聞くことができます。 「台湾国際放送」 http://japanese.rti.org.tw 「フォルモサ便り」 http://japanese.rti.org.tw/Japanese/formosa/index2007.htm |
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2012-03-31 Sat 09:00
鄭 昌 桜木に蕾みつけし冬の日に風な吹きそと春まちわぶる (同 上) 冷えこみて桜のつぼみ固くしてしばし待たるる春の訪れ 黄 秀菊 春先の見事なる宣言爛漫の桜並木が夢に浮べり 黄 教子 わが胸を打ちてしめらふ春の雨せつなきほどに桜を見たし 謝 雲嬌 しとしとと雨に降られて桜花さびしかるらむ寒くあるらむ 陳 淑媛 早春の野にも山にも緋寒桜俯きて咲く姿羞(やさ)しく 王 正子 緋桜の俯き咲くはいぢらしく遠き初恋思ひて眺む 林 百合 花ごとに雨つゆふふみて朝光(あさかげ)にけぶりあい咲く山桜花 (同 上) 花ごとに朝露ふふみてきらめける真白き桜のいとすがすがし 呉 順江 満開の桜の花に驚きてこれはこれはと声あぐるのみ 趙 寛寛 垣根より覗きて見ゆる桜の木満開のピンクにしばし足とめて 鄭 昌 桜花卯月の野山に咲きこぼれ美しきかなふる里の春 游 細幼 桜見の季(とき)には早き草山に短歌の種をば拾ひに来たり 林 梅芳 華やかな桜の下に吟味する春はうららと咲き誇るかも (同 上) 咲く花と風に心のゆるる春短歌を綴りて一人楽しむ 林 百合 大空に枝打ちかわし咲き盛る桜は花の大傘かざす 潘 達仁 咲き盛る花を見上ぐる人のなし佇む我に降る山桜 蔡 永興 野に出でてこれはこれはと咲き満つる桜吹雪の道を我が行く 林 碧宮 満開の南洋桜の木の下で花と語らふ至福のひと時 荘 進源 遅咲きの桜は庭に咲き盛り散りたる隣の桜を見つむ 荘 清冷 満開の桜花見て来し嬉しさに今年の春は吉のあるらし 陳 家権 絶え間なく気遣ひ育てし八重桜春を迎ふる庭に咲き乱る 林 蘇綿 李総統を産み育てたる三芝郷あの山この道八重桜かな 呉 淑子 春に入り北風いまだ冷たきに吉野桜は阿里山に盛る 潘 建祥 卯月に咲く花に魅せられ阿里山へ吉野に負けぬ台湾さくら 鄭 静 花吹雪両の手に受け肩に受け杳き日憶ふ今朝の阿里山 陳 英侯 春雨の阿里山桜花さかり雨にうたれて散るを惜しまず 2011年臺灣阿里山櫻花之美 (作者 ytc41) 林 聿修 「ようこそ」と頬を撫でゆくしだれ桜に吾も笑み返す奈良東大寺 (同 上) 聖徳太子一族の悲史そのままに薄墨かなし法隆寺のさくら (同 上) 咲き満つる桜やよいの風に舞ひ舞ふ嵐山らんまんの春 (同 上) 舞ひ落つる桜に送られ渡月橋ゆく人力車(くるま)の女ら笑みこぼし 頼 淑美 高台寺今を盛りと桜咲き心和ます春のひととき 河盛尚哉 菜の花の黄色と競ひ凛と咲く近江過ぎゆく桜前線 蔡 永興 名古屋城見ゆる限りの花桜堀の内なる城を隠せり 歐陽開代 目を奪ふ淀の岸辺の桜花太閤偲び船浮かびゆく 温 西濱 太閤が花見の宴を開きたる城址にわれは夜桜見たり (同 上) 吉野山見渡す限り霧桜ビデオカメラに我を忘れて 李 聡火 跡形のなき安土城の道の辺に桜花満開「信長」思ひいづ 歐陽開代 桜舞ひせせらぎ澄める熊野路の敷島一の桃源の地や 陳 清波 仰ぎ見る今を盛りの山桜日光街道に花咲爺の夢 黄 教子 千鳥が淵染むる桜の花霞時空を超えて探しゆく影 (同 上) 花の下眠るがごとく死ぬもよしさくらさくらの花の海ゆく 郭 清來 桜狩り遥々来たる弘前は花は未だし蕾に吐息 周 福南 あでやかに満開の桜揺れゐたり肥後の古城の歳月を詠む 李 英茂 城山の合戦の跡に舞ふさくら木の間がくれに煙噴く島 鄭 静 咲き初むる染井吉野をいとほしみ春風そよと靖国の庭 (同 上) ひめやかに桜の咲ける靖国にみ霊の声をと耳澄ましたり 黄 教子 靖国のさくらは御霊の集ひとも思へて青き空を見上げぬ 曾 昭烈 汝が霊に誘はれて来し靖国の桜の花びらおともなく散る 温 西濱 九段坂空征きし兄偲びつつ合はす双手に桜花散る 洪 坤山 靖国に神と祀られし英魂よ日台共に同期の桜 黄 華浥 台湾に日本の心を尋ねんと来し人らと唄ふ同期の桜 蔡 龍鐘 桜咲く並木の道を高らかに軍歌うたひしかの日懐かし 温 西濱 肩を組み同期の桜唱ふ熱血の時代は過ぎて思い出はるけし 同期の桜 (作者 v8yw) 田上雅春 咲きほこる桜並木に春の雨今暫しだに耐へてな散りそ 姚 望林 春雨に桜の下を洋傘さして花びら載せつつをみなは歩む 文 錫樫 春雨のそぼ降る中を着くバスに桜花びらは何処で附けし (同 上) 風の中光の中に散る桜蝶蝶の舞ふ如く閃く 頼 榕煌 風に揺れ雨に打たれて散る緋桜春雨けぶる花の盛り時 蔡 永興 春行くや満開の花散り落ちぬ神のいたづら雨降りやまず (同 上) 散る花のひとひらごとに舞ふ日影人酔はしむる春幾たびも 林 月雲 春雨に散る山桜の花むくろ遠き青春浮かびてさみし 黄 秀菊 花が散り又咲き誇る青春は呼べどかへらぬ夢とぞ知れり 游 細幼 美しく咲き競ひてもやがて散る花の生命は風に吹かれて (同 上) 散る桜掌に受けとればわが細き生命線に触れて落ちけり 潘 達仁 階に散りたる桜の花むしろ生命の景にたどりつきしか 呉 順江 暫しの間誇り咲きゐし桜花未練見せずに清く散りゆく 黄 華浥 桜花「散るべき時に清く散り」我は唄ひし我は学びし 林 燧生 桜花弥生の風に散りにけり大和魂を身近に見せて 徐 誠欣 いち早く若葉となれる桜より風の日花の花片飛びゆく 鄭 昌 葉桜の季節きたりて想ひ出は弥生の空に風と消えゆく 游 細幼 葉桜の枝先に咲き残る花ひとつひそかにこの春は逝く 陳 秀鳳 咲けば散る自然の摂理もはらはらと散りし桜に胸熱くなる 河盛尚哉 台湾に桜を植うる人のあり大和心はかくやありなむ 北嶋和子 霧社に咲く桜並木の樹液には大和魂満ちて溢るる 鄭 静 ふたそ歳桜並木に花咲かす埔里から霧社へと花咲か爺さん 黄 教子 去年植ゑし河津さくらの咲くと言ふ霧社の花守り王海清さんは (同 上) もう一度霧社を桜の名所にと黙々植ゑきて君さくら守り (同 上) 台湾にさくらを送り続けむと日本李登輝友の会の人らは 蔡 焜燦 台日の友誼の絆なほ強く固めてゆかん桜の交流 黄 教子 祖国より贈られ来たる河津さくら紅ほのぼのと開花きをり (同 上) 日本と台湾結ぶうるはしき河津さくらの花の橋かも (同 上) 歳月を経りゆくほどに台湾の桜となりて満天に咲け (同 上) これよりは桜前線台湾を起点となすと思へばうれしも 陳 秀鳳 夫の夢「桜前線台湾から」何時かは叶ふ開花宣言 柚原正敬 台湾に贈りしさくら今年また咲き初むと聞く春は来にけり 蔡 焜燦 蓬莱の地に根を張りし大和桜台日友好絆はかた志 呉 萬 庭先に桜の苗を植えにけり余生の限り花を咲かせと 柚原正敬 春に愛で夏に憩へる桜木ゆ豊けくいろふ朽葉しきふる 蔡 永興 一本の桜といへど春の夢希望もたらし赤く燃え立つ 林 聿修 遠き日の母国日本の被災地に桜早よ咲け幸ともなひて 蔡 西川 震災の復興の桜きつと咲くと花見に誘はれ返信に書く 胡 月嬌 年々の豪雪耐へて来し民よ桜も咲きて励ましゐるぞ 蔡 焜燦 日の本の被災の友どちこの我も君らと共に春や忘れじ さくら 森山直太朗+合唱 / 311 東日本大震災 東北の復興を祈って・・・ (作者 senseofwonder888) |
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2012-02-28 Tue 02:28
台湾歌壇の蘇楠榮先輩の 『 南 島 に 息 吹 く ー 蘇 南 瀛 歌 集 』 より ![]() 「 忘 れ 得 ぬ 彼 の 年 一 九 四 七 」 ―――それは日本敗戦の後一年半、作者が大学一年生の二学期、十八歳四ヶ月の時のことであった。そしてこれらの歌は二○○九年一月にかけて作ったものである。 殺されも殺しもせずに生き延びし落人の我一九四七 戒厳の布告読み居し三人が巡邏の隊に射殺されしとふ 北門の物見の衆に急掃射命拾ひし韋駄天我は 雨の夜のルーズベルト路石の道巡邏車に遭ひ氷背を走す 集へるも武器領(と)りのどち桃園ゆ疲労困憊徒手にて返る 戒厳下ひと日通じし汽車に馳せ兇都脱出桃園目ざす 義勇軍の有りと聞きしも来て見れば伍長囲みて二十幾たり 機銃すえし憲兵隊を襲ふとか震へつつ聞く雨の冬の夜 日軍の埋めたるといふ手榴弾唯一の武器と心して持つ 配られたる手榴弾持て跳び入れば警官手を挙げ銃器庫開く 日本刀さげて下山せし酋長は抗戦無謀と出兵拒む 思ひきやかの医学士の酋長の他日睨まれ露と消えんとは 基隆と高雄に大軍上陸と報せのありて衆心搖らぐ 奪ひたる銃持て集ひし角板山勝目なしとて解散となる 二二八の我は落人故き友と銃捨て難てに野をさまよひし 銃肩に夕陽の浅瀬を渉りにきそのせせらぎの澄める思ひ出 用なさず葬る銃よ腹いせに森に向ひて「轟」と一撃 乗せくれしトラックの上に銃構へ検査の站を不意に駈け抜く 月無き夜とある山辺の崖下に銃を埋めにき涙もろとも 敵ひとり屠らず埋めしゴムマントの中の火筒よ六十年の銹 栓抜ける榴弾秘めて哨兵の前過ぎし夜の胸のどよめき 銃なき日ホームにしゃがみ飯食らふ敵兵睨みて空(から)歯がみせし 名を知らぬ案内入れて四銃士学友(とも)等先立ち早やも幾とせ 云はざりし十(と)八の歳の「二二八」を八十路に語る長らへしかも ![]() 台湾大学入学。一九四六年九月。 「忘れ得ぬ彼の年一九四七」の歌の半年前の蘇楠榮先輩。 <関連記事> 御霊よ永遠に安らぎたまへ http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-62.html 二・二八事件を詠う http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-50.html 中華民国に統治されてきた台湾人の怒りと悲哀 http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-63.html |
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2012-02-05 Sun 19:55
「来て見れば 昔も今も 狭き門」 作者 Kiyoshi先輩 年に一度、有っても無くてもいいような会合に顔を出すため、中学の母校に出向いた。 緩やかなダラダラ坂を登り、校門を通り、本館の北端を迂回して会場へ行こうとしたが、かねがね考えていた或る事を思い出し、反射的に校門の方を振り返った。しばし躊躇の後、踵を返して校門の方へ戻って行った。校門の中央に立ち、校門をしげしげとみつめた。 狭い!確かに狭い。私は門柱に背中を付け、別の門柱へと歩を移す。8.6歩、4.3m。長年の学校勤務でこれよりも狭き門を知らない。あまりの狭さにここを裏門と勘違いしている在校生が多いと聞いた。まさか若い教師達までが?再教育せねば…。 狭きこの門、過去幾多の少年達を門外に拒み、その青い志を挫いた事か。少年達は涙を呑んで恨めしげに後を見い見い、坂を下って行ったであろう。 「罪深き 狭きこの門 今もなお」 そして今私が70年前を回顧する時、かつて門外に拒まれた少年達も、選ばれて狭き門を潜った小年達も、夫々の人生を闘い、共に84の坂を駆け上がって来た。これ等二組の少年達の人生は皆正解だったのだと感慨深い。 今思う、「人間84年、下天のうちを比ぶれば、それ夢まぼろしの如くなり(信長)」。今日、忘月忘日、また思う、「昨日かくてありけり、今日もかくてありなむ、この命なにを齷齪、明日をのみ思いわずらう(藤村)」。 開会時間までかなりの間があったので、玄関前の大蘇鉄茂る植え込みの庭石に座りて、静思回顧しばし慰む。玄関の方を見つめる。 70年前(1942)、3月忘日の玄関の喧騒と人だかりが鮮やかに眼前に彷彿した。小学から中学への入試合格発表である。その日も私は今と同じ庭石に腰掛けて目の前に映る人間模様を楽しんでいた。すでに掲示板に自分の名を確かめた後だから心にゆとりが出来ている野次馬だった。 中年の婦人と息子らしき少年が人力車で校門に着いた。車は婦人の指図か或いは車夫のマナーか、門外で車を止めて二人を下ろした。少年の手を引いて、婦人はいそいそと掲示板へ向かった。黒山の人だかりの中を婦人は少年を後に残し、腰を低くしながら前へ割り込ませてもらい、番号を探す。 間もなく動いていた頭が停まり人だかりの中から出てきた。待っていた少年に優しそうになにか言って車の方へ歩き出す。直感で「落ちた!」と思った。母と子は車に上がり坂を下りていった。 この時から少年のこの学校に「拒まれた人生」が始まった。 校門の前方遠くから少年二人、こっちへ歩いてくる。パンツにシャツ、そして裸足である。それはありふれた当時の子供たちの身なりであって、別に違和感はない。物資統制、入手困難な運動靴を長持ちさせる為、むしろ奨励されていた。実際にその頃私小学生は校内では裸足だった。裸足の足裏は運動靴以上に長持ちした。 うち一人は空き缶を下げ二人は、楽しそうなお喋りだ。日本語かもしれない。 校門まで来るには、北と南へ夫々分かれ道があったが二人は尚も真っ直ぐに校門へ向かって来る。坂を登りかけている。手に提げた空き缶の中にもう一つ小さい空き缶があるらしくカラカラと音を立てている。木の棒が一本入ってる。 やっと分かった、こいつ等コオロギ狩に来たんだ。手に提げてるのはコオロギ狩の伝統兵器だ。それにしても我が校の構内を狩場に選ぶとはいい度胸だ。 校内の狩場はただ一箇所、運動場西南端の崩れた城壁傍の草地。中三の時、級友二人で、此処で空襲に備えて一人用の青空退避壕、通称タコツボを掘っていたら、あっちこっちの穴から捕虜、貴重蛋白源がゾロゾロ這い出してきた。 濡れ手に粟の如く、追いかけ掴み、ポケットに暫く飼って帰宅後処刑する。まず、胸を強く挟み窒息させる。衣は付けないで油に入れる。注意!絶対に生きたまま煮え地獄に入れるな。必ず化けて出て来る。 サクサクの歯ごたえ、プンと鼻つく美味芳香、戦中最高のゼイタクだった。 付近に清水流れるせせらぎがあり、これが校内と校外を分ける国境だった。小川の向こうには民家の自給自足の家庭菜園があり、その関係か、この草地は虫たちの格好の生息地になった。 当時は非常時下、夜半でも警報が鳴れば規則に従い、学校警備のため登校した。その時によくこの草地に来た。清流はよく蛍を呼んだ。地上は揺れ行く魂のような蛍、天上はこの魂がたどり着いた大星夜であった。公害、光害と言う言葉の無かった古き良き遠い毎晩の宝石を散りばめた星空であった。 「闇ほたる 上へ上へと 星になり」 「少年よ、大志を・・・」なんて時代錯誤的な台詞は言わない、BLOG、FB、NET、電子ゲーム、万能ケータイいじり…等もいいが、偶には自然からエネルギーをもらっててコオロギ狩をしようではないか。 と言っても、今町中でコオロギの穴なんて見つからない。狭い路地までが舗装されて土の地面は殆ど無い。何時も思うのだが、此れは間違つた環境美化だ。折角降ってくれた雨も地下水になれず海の中、追い討ちをかけるように養殖業の地下水使い放題、地盤は沈下する一方。地球は変貌の一途。 郊外へ行こう。水を大量に使うので水源に近い穴を探そう。棒切れを穴にソロソロ差し込んで敵の在不在を確かめる。土の感じなら空き巣。柔らかい手ごたえは敵。敵は敵でも偶に「草尾蛇」と呼ばれる無毒のヘビが素早く逃走する。空き巣占領の可愛い蛇である。殺してはいけない、殺す理由も無い、益虫だ。 水を穴へ注ぎ込む、が直ぐに土に吸われる、棒切れで知面から穴に向って差し込む、水の倹約と敵の退路を絶つ。どんどん水を注ぎ込む、そのうちに飽和して水は穴に溜まる。虫は呼吸が出来なくなってソロソロと這い上がってくる。探知器のアンテナ二本が先に出てくる。頭隠してヒゲ隠さずだ。すかさずそれをつまんで釣り上げる。これで戦果一匹だ。少年達よ味わえこの快感を。 「もっと遠くへ行け、もう悪いヤツには捉まるな」とよく諭し説教して放してやる。これが男の狩りロマンだ。今は豊饒飽食の時代だ、虫の二三匹には事欠かないだろう。触角をつまんで吹く、透明と不透明4枚の翅をヒラヒラさせて嬉しそうに青空へ消えて行く。 さて話をコオロギ二少年に戻す。二人は脇道には行かず、校門をめざしている。とうとう坂を上り校門を通り校内に入ってきた。私は興味が湧いて来た。身なりと手にした小道具で二人が受験生とは思わなかった。それが落とし穴だった。二人は掲示板へ向かった。小さいほうが道具を持ち、素手になった一人が敏捷に人だかりの中へ割り込んだ。 間もなくするりと抜け出して、掲示板を指差して頓狂な声で連れにわめいた。「あそこ、僕の名前!僕の名前!」。もちろん日本語で。連れは小躍りした。弟らしい。二人は大声でペチャクチャ、ペチャクチャお喋りながら坂を下りていった。狩は止めたらしい。 私は幸運にもこの爽やかな光景を目の当たりにし、それが同期生第一号との出会いであった。彼は狩りのついでに合格発表を冷やかしに来たのだ。無くてもともと、有れば儲けもの、棚からぼた餅だ。かく言う私も一緒だった。その後、校内文集で、名乗りを挙げてもらいたかったが、遂に分からずじまいだった。ハダシのコオロギ狩に抵抗を感じたのか? 玄関の喧騒は消え、私は回想から現に返った。70年前に見た失意落胆の人力車少年と、希望歓喜のコオロギ少年、光りと影の強烈なコントラストだったが、今84歳の坂を登りきった二人の人生は皆正解であっただろう。感慨が胸を通り過ぎる。独り私は「我が生涯は 悔いだらけ!」 「狭き門」が束の間の暖冬の朝陽に、さんさんと映えている。が土曜休校日の玄関前の植え込みは暗い静寂、ここにも光りと影の映り合いがあった。今年一月忘日、風が首筋に冷たい世の中だったが、暖冬の朝のひと時であった。 やおら腰を上げて会場へ急ぐ。 2012.1月忘日 |




























