新高山百合
http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/

スポンサーサイト
-------- -- --:--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

別窓 | スポンサー広告 | ∧top | under∨
蔡焜燦先生「台湾人と中国人は文明が違う」
2010-12-09 Thu 16:32

7月19日このブログに、「安藤康博」さんから蔡焜燦先生宛の次のような質問がありました。

「蔡先生御机下。 文明史について学んでいる者です。冷戦後の世界秩序を記したS・ハンチントン氏の「文明の衝突(集英社)」は記憶に新しいと思います。同書によると、台湾は中華文明に属すると記されています。しかし、小生の台湾観では必ずしも正鵠を射ていないように思えます。地政学的には台湾は四方を海に囲まれ、海洋貿易立国として存立しています。近代工業社会は日本統治時代より受け継がれ、戦後は民主主義を確立しました。少なくとも、一つの中国のもとで政治・経済・軍事の覇権を唱える中華文明とは異なると思うのです。実際に、台湾の方々が自己の文明をどのように認識されているのか、直接お尋ねしたかった次第です。宜しくお願いします」

回答が大変遅くなり、本当に申し訳ありません。以下は11月24日にもらった蔡先生からの回答です。



安藤康博先生、7月19日のご質問に対して、今日11月末ですけど、訪問客が多くて、それ以外にちょっと体調が崩しておりましたので、あなたのご質問ね、私の考えことを述べるのが大変遅くなってごめんなさい。

先生、あなたはよくいろんなこと、いろんなもの、いろんな角度から読んでいる、と私は思います。まず一つ、所謂そのS・ハンチントン氏が言う「台湾は中華文明に属すると記されてる」、が、あなたは「台湾観では必ずしも正鵠を射ていない」と言って書いていますが、これは同感です。

台湾は中国ではありません。本当にあなたが言っているように、台湾は四方海に囲まれた「海洋国家」、「海洋民族」の一つの、ある意味で共通したような文化を持っている。日本も四方海に囲まれている。日本は日本で本当に世界に類のない、一つの立派な国になっている。

最近の日本、今回の民主党代表選挙で、私は「オカン」がした。「オカン」って、漢字で書くと「悪い」、「寒い」と書いて「悪寒」と読みますね。これは「管直人」のことと言ったら、皆ゲラゲラ笑いましたね。

日本、それから台湾は小さいな島で、ずっと有史以来、台湾は600年の歴史があるかどうか、文字になったものはあるかどうか、有史以来すべて外来政権にやられとったんですよね。スペイン、オランダ、それから清、それから日本、それから蒋介石の国民党政府、全部外来政権に何かされましたかね。

これは私の説ですけど、私の姓は蔡であり、新高山百合ちゃんは黄色と書いて「こう(黄)」と言うんですが、我々の先祖は大陸から来ました。なぜ大陸から来たかについては、いろいろ説がありますが、結局我々の先祖はね、シナという国、皇帝という「天下」では、「私」のためにする政治が行われ、その主たるものが、所謂「贈賄、収賄」だけじゃなくて、役人に強制的に金を持って来させるものでした。それから、それ以外に税金はね、日本では年貢と言っておりましたね。とにかくシナという国の官吏たちは、国民が食えなくても、自分のポケットが膨らんで、上の者に渡す金もできさえすれば、国民はどうなろうと、彼らが統治している人たちがどうなろうと、平気でした。我々の先祖はそういう悪政、酷政から逃げようと、命をかけて台湾海峡を渡って、台湾に来たんです。

ところが、あの頃の清の政府は、女性は国外には出さなかった。だから台湾はこんな諺があります。「有唐山公、無唐山媽」(中国人の父はいても母はいない)と。男だけで来て、現地におる原住民の女性と結婚したのです。

そこで中国人とは異なる血統ができた。

亡くなった司馬遼太郎先生がこんなことを言いました。「シナという国、最高のモラルは孝行です」と。つまり国を愛するという観念がありません。

台湾を統治した日本人の愛国心は強く、そして愛国心の大切さ、公共心、遵法の精神などを台湾人に教えました。それで台湾は民主化も行われたのですが、これは中華文明によるものでは絶対にありません。

ところで今の日本が少し崩れていますね。この20年来、私は日本の若い人、それから社会人と接触していますけれどね、ことに最近、自衛隊の方が旅行に来るですよ。私は彼に聞きます。「あなたは国のために死ぬことができるか」と。はっきり「はい!私はいつでも国のために死にます」とという自衛隊、それから国民、若い人が増えてきました。これは所謂の戦後の日教組教育の違いを発見して、親たちが、それから素晴らしい教職を持っている教員たちが子供たちを再び育たてはじめたんですよね。

同じようことを私は言いますが、日本でもたくさんの人が、自分の国を、故郷と愛しなさい。自分の故郷を愛することは、自分の国を愛することになる。自分の国を愛することは、それによって、隣の国のことも愛することができる。それが一つの平和になることだと、という教えをはじめています。たくさんの先生の方が頑張ってやっています。




もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:0 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
蔡焜燦先生「母語は日本語と台湾語」
2010-10-02 Sat 21:53

7月12日このブログに、「マグカップ」さんから蔡焜燦先生宛の次のような質問がありました。

「蔡さま 何度かブログを読ませていただき、台湾からの目線というのは非常に新鮮で勉強になります。 質問させて頂きたいのですが、日本語世代と呼ばれる高齢の方々と、若者の間では家庭内でも言語としてのコミュニケーションはスムーズにいかない部分がある、と本で読んだことがあります。 これについては実際にはどうなのでしょうか? 蔡さま、または他の家庭での状況をお教え頂けたらうれしいです。」

しかし蔡先生のお体の具合などの関係で、お答えをいただくことが遅くなりました。申し訳ありません。以下は9月22日にもらった蔡先生からの回答です。



マグカップさん、7月12日の私に対する質問はね、前から読ましてもらったですけど、体調が悪いとか、それからお会いしないといけないお客さんが次から次へと来るので、またご返事を出さず失礼しております。

ご質問は、我々日本語世代と言われている元日本人たちが、今台湾と若者の間に、家庭内だけじゃなくて、所謂仕事でも、社会での言葉の「コミュニケーションはスムーズにいかない部分がある」のではないかですね。

「実際はどうですか」ということですが、はっきり申し上げますと、私たち日本語世代の母語は日本語なんです。日本語でものを考え、日本語でものを書き、日本語で喋る。

だから今ね、終戦65年になりますが、私に漢文でね、何か文の一つ書けとか、例えば、こんな年だから、ラブレター書きませんけど、今の若い世代の美しい女性にラブレターを書けと言っても、完全な漢文というのを書けません。

私はあえて、皆さんの言う「中国文」という言葉を「漢文」と言っていますけどね。「漢文」、漢字で書く文だから、漢文です。「中国文」だと、今の中華人民共和国の簡体文字。

あの国は所謂古来シナ4000年の王朝の間に、甲骨文からいろいろな文字が出きまして、その状態でできた漢字を使って、昔は文言文、文言体で、所謂100年近く前だったがどうか分かりませんが、喋る言葉の口語文、彼らは口語文と言わずに、白話文と言いますが、喋り言葉でさえ私は漢字で白話文が書けないです。

我々は終戦になって、私の場合は、日本の少年航空整備学校から帰ってきてから、戦後、結婚したんですけど、子供たちが生まれた頃、所謂蒋介石政府の、シナ人の圧政の下に、北京語というのを習わされました。

IMG_8134.jpg

彼らは我々台湾人に「これはお前たちの国語だよ」と言って、北京語を我々に習わせたのですが、実際には蒋介石は浙江語を使っていた。蒋介石の妻の宋美齢は上海語を使っていた。四川語を使っている首相(行政院長と言いますが)の話は誰も聞き取れない。聞いても分からないようなことを喋っている。それが「国語」だと。というような状態で子供たちには北京語を教えていました。

北京語という言葉はコミュニケーションについては非常にいい言葉である。それは私も認めます。だから私は今でも北京語を、シナから来た連中よりも立派に喋ります。が、それを「国語」として押し付けられるのなら、私は受け入れられません。

もう一つ、これはご質問からちょっと脱線しますが、蒋介石政府が来て、台湾人に対して圧政を施しました。所謂「白色テロ」を行ったのです。当時はなんと世界にも類のない38年間の戒厳令。その記録的な戒厳令を開始したのは蒋介石の息子である蒋経国です。あの時代は何も喋ることができません。

子供たちとコミュニケーションはその後も我々の母語、母なる台湾の言葉「台湾語」で喋ります。台湾語でものを言ってこないと、相手にしません。よその家庭では親子ともに北京語でコミュニケーションをやってますけれどね。私の場合は違います。

あの時代、子供たちに何も言えない時代だったんですよ。だからふと思い出したのが、ほとんど毎日靖国を参拝している中條高徳先生が嘗て『おじいちゃん戦争のことを教えて ― 孫娘からの質問状』という本を出したことです。お孫さんがアメリカに行って、お爺ちゃんに手紙で戦争のことを教えてって。すると中條高徳先生がその返事を書くんですね。

我々も李登輝総統が総統になった後、所謂静かな状態で、台湾はある意味で民主化にされたです。言論の自由からいろいろなことがやっとこさ。そこで本当に中條先生じゃないけど、我らの孫から「お爺ちゃん、228のことを教えて」、「お爺ちゃん、戦後のことを教えて」と聞かれる。子供たちよりも孫たちに、そういうことを教えてやってるんです。

そのとき喋る言葉は、これは恐らく30%も超えませんがね、母語台湾語でね。これでだいぶ孫たちとコミュニケーションをやりました。戦後、北京語教育を受けた世代は大人になって結婚して子供が出来て、結局子供たちと喋るのは北京語が多くなりましたが、私の家では孫たちが北京語で来たら、私は一つも答えません。「北京語は学校で喋れ」とやって、「台湾語を喋りなさい」と言います。それは決して北京語が嫌いだとはという意味じゃありません。所謂、国語として、押し付けられた、ということに、我々は反感を持っているのです。

日清戦争で日本が勝ちました。あの百十数年前の世界の潮流では、勝った国は負けた国から損害賠償を取る、領土の割譲を受けるというものでした。その時に清という国が台湾、及びそれに附属する諸島を日本に割譲したのです。だから私は生まれて日本人になったのですよね。そして我々は日本語を喋っとった。

それを蒋介石政府が占領にきた時、日本教育というのは「毒」だと言って、それを全部取り消そうとした。が、我々は日本語という母語、台湾語という母語、両方とも母語です。忘れることは出来ません。ことに、考えること、書くこと、喋ること、日本語は一番やりやすいです。だから今台湾には、はっきり言いますけど、「美しい日本語を守る会」があります。皆さん、日本国内に美しい日本語を守るというグループをどれだけありますか?

台湾には日本語世代が美しい日本語を守って行こうと、月に一回勉強会をやっています。私は台湾歌壇の代表もやっています。三十一文字を万葉調で、文言文で。私はいつも短歌じゃなくて「和歌」と言います。台湾歌壇は、「歴史的仮名遣い」と言いますけどね、あれを守っています。

私の友人でもありましたが、剣道8段、医学博士の呉建堂氏。この方は菊池寛賞ももらいました。彼が「台北歌壇」というグループを作ってからもう43年になります。我々は6年前に「台北歌壇」じゃなくて、「台湾歌壇」と名前を正しました。

何故かと言いますと、蒋介石時代に何かの会があって、それに「台湾」と付けられたら、すべては反乱罪になりました。あの有名な金美齢先生が日本へ留学して早稲田に入って、そこで台湾人を集めて「台湾稲門会」をつくりましたが、名に「台湾」を付けただけで、金美齢先生はブラックリストです。30数年間帰って来られませんでした。蒋介石たちは我々に「台湾」という意識を消し去ろうとしたのです。

だから我々は台北歌壇というのを台湾歌壇の名前を正しました。「台湾川柳会」も昔は「台北川柳会」でした。今は堂々と「台湾川柳会」で川柳をやっています。台湾の日本語世代の人は、和歌を詠み、川柳を詠み、俳句を詠み、そして美しい日本語を守るということで、百人以上の会員が今でも美しい日本語の勉強会をやっています。それに対して我々はね、一つの矛盾も感じないし、非常に自然な形で日本の方と付き合っています。

今は家庭内では、特に李登輝総統が総統になられ、言論が自由に始まってからは、北京語を使うか、台湾語を使うか、コミュニケーションはね、昔ほど圧力を感じていません。

最後になりますけど、今朝は夫婦喧嘩になりました。日本語で夫婦喧嘩です。それが我々日本語世代の「現在」でございます。返事が遅くなってごめんなさい。





もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:2 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
蔡焜燦先生が語る台湾人の「日本への思い」と「朝鮮人との文化の違い」
2010-07-24 Sat 20:03

先日このブログに、「gtea さん」から蔡焜燦先生宛の次のような質問がありました。

「日本が去ってから、とんでもない支那人が来た事によって日本の良さを痛感し、その時代を懐かしく思う、というのは、何となく理解できるのですが、徹底的に再教育され、日本語自体も弾圧の対象となったのに、未だに日本と皇室を心配して頂けるような人々が多いというのはどうしてでしょうか?」

「同じ日本の統治を受けた朝鮮と比べるとその差は雲泥どころでは無いように思います。一体何が原因で、台湾と朝鮮では日本に対する意識がここまで違ってしまったんでしょうか?」

これに対して蔡焜燦先生から7月14日、次のような回答が寄せられましたので、掲載します。


蔡焜燦でございます。今日新高山百合さんから「good tea」さんのお名前を聞きました。「g、tea」さんと読むのか、「g、t、e、a」さんと読むのか。

私は勝手に、これは美味しいお茶のことじゃないかなと思ってますが、台湾のお茶も静岡のお茶も世界的に有名ですから、まあ、いつかチャンスがあったら、お名前の意味を教えてください。

私の『台湾人と日本精神』を今読んでいただき、ありがとうございます。

その前に、できたら、司馬遼太郎先生が書いた『街道をゆく』第40巻の『台湾紀行』をお読みになると、今まで知られていなかった台湾のことがたくさん書かれています。

それは日本の方だけじゃなくて、戦後、反日教育を受けた台湾の人々も啓蒙しております。

その後、自称「司馬先生の押しかけ門下生」である私が、台湾に言論の自由というものが出来てから、いろいろこの50年来、思っていることを『台湾人と日本精神』に書かせてもらいました。この出版パーティの時に私ははっきり東京で参加された400人の方に申し上げましたが、今までの、所謂、日本語世代の私たちの、思いのたけを、初めて書かせてもらいました。

IMG_7686 (2) gteaさんの質問を見ながら回答する蔡先生

ご文章の中に「日本は去ってから、とんでもない支那人が来た事によって日本の良さを痛感し、その時代を懐かしく思う、ということは、何となく理解できる」と書かれておりますけれど、例えば、台湾へは戦後マッカーサーの連合国総司令部の命令で、蒋介石軍が進駐して来たんです。

決して、台湾が支那のものになったということじゃなくて、1945年9月2日東京湾でミズーリ号の上から、マッカーサー将軍が日本の代表の重光葵大使と梅津美治郎との間で、降伏文書の調印のあと、支那戦区総司令の蒋介石に台湾に進駐せよと命じただけです。アメリカが日本を占領したようにです。

その時に蒋介石軍が台湾に進駐軍として来たんですけれど、1945年の10月25日に台湾軍司令官の安藤利吉から降伏文書を受降した時に、受降人の陳儀が発表「今日からは台湾人は全て中華民国人である」ということを宣言してますが、これはとんでもないことです。

が、当時台湾人としては、一部、祖国中国に帰ることができたということで喜んでおりました。

まあ、その時の中国の進駐軍の台湾におけるあらゆる方面のことは、台湾人を失望させました。

当たり前のことが、その当時の軍政長官が授降の後で、こんなことを言いました。「今日から台湾は中華民国の領土である」。しかしこの言葉は明らかに、所謂当時の連合軍総司令官の命令に悖る、と違うものです。マッカーサーは、日本は台湾を中国に返せとも言っていません。

その前にカイロ宣言という宣言がルーズベルト、チャーチル、蒋介石三人の会議後に出されています。そこには日本が中華民国より窃取した台湾及びその附属の諸島は中華民国にかえさるべしという文がありました。

ただこの「カイロ宣言」とは幻の宣言で、ルーズベルトも、チャーチルも、蒋介石もサインしていなかった。国際法的に無効である。

もちろん、日本は中華民国から台湾の窃取していません、日清戦争の時にはまだ中華民国というものがなかった。日本は日本の国益のために、清という国と戦った、そして勝ちました。清は台湾を日本に永久割譲した。清は元々台湾を「化外の地」と言って、殆ど台湾を建設しなくて、そのままほったらかしにしとったんですね。

伝染病が流行るということで「瘴癘の地」と呼んで。

当時の清朝の李鴻章は日本に、こんなことも言っています。「台湾の男はことごとく賊。女性はことごとく娼女である」と。こういうようなことまで言って、日本に島を割譲しました。   

明治28年から台湾は日本の領土になったのです。そのころ、日本のものになるのは嫌だと言って、抵抗した人もおりました。当時、台湾におった清のトップの人である唐景は台湾民主国というアジアが初めての共和国を作りましたが、3日間で旗を巻いて逃げたんですね。

残った清の兵隊が台北、台南とかで掠殺をやっとりましたよね。それを日本軍の北白川宮能久親王が近衛軍を率いて、その年の28年の5月に台湾に上陸して、10月28日に台南で薨去されましたが、その後、日本は台湾を自国の領土として経営し、台湾人を自国民として日本教育を施した。

初代総督の樺山資紀は先ず台湾人に国籍を選ばせたんですよね。これは以前も言ったことがあります。そして2年後には台湾人はみな日本人になったと。

そういうことで、台湾人は台湾の日本人として50年やって来ました。

そして、日本の教育ですが、当時50年間の日本の統治だけで、昭和20年の台湾の人達の就学率は92%にも及びました。これは前回も言ったことがありますけど、オランダはインドネシアを40年くらい占領して殖民地として扱い、昭和20年の時点では就学率は3%もありませんでした。

この比較を見ただけでも、日本はいかにまともな国として、まともなに自国の領土の人達を扱っていたか分かると思います。

それから、gteaさんのもう一つの質問にね、「同じ日本の統治を受けた朝鮮と比べるとその差は雲泥どころでは無いように思います。一体何が原因で、台湾と朝鮮では日本に対する意識がここまで違ってしまったんでしょうか?」とあります。

歴史を辿りますと、日本は明治28年の下関条約で台湾を領土にしたわけですよね。そしてやはりその条約で、日本は朝鮮を清朝から独立させているのです。朝鮮半島を独立させるということは、当時の日本の国益に繋がりました。

まあ、それは別として、朝鮮半島は昔から東は日本、西は支那、二つの国の挾間の中に挟まれている。いろいろあったですよね。例えば神功皇后が朝鮮を征伐に行ったり、豊臣秀吉も朝鮮を征伐に行ったり。西の方からは隋、唐、漢がやっぱり朝鮮半島を攻めたりする。

朝鮮は檀君開国から4000年といいますが、あの長い歴史のなかで朝鮮半島では、例えば新羅、百済、高麗だとか、いろいろな国が出現して、ずいぶん争っていた。その一方で北のモンゴル、満州の金だとか、達靼、そいうところの脅威があった。李王朝では明とか清などに太子クラスの王族を人質として派遣しなければいけない。そいう状態から朝鮮民族の大変典型的な民族性ができたと私は思います。

このように外から圧迫を受け、それによって半島民族の「恨」という文化が生まれた。
「恨」というのは恨みですよね。今でも日本の総理大臣が靖国に行くと、こういうことを取り上げてやる。

台湾は島国である。海洋民族国家のいい点を持っている。外部から苛められても、すぐ忘れちゃう。人を許す、あっけらかんとした海洋国家の国民性を持っている。これは日本とも同じでしょう。

日本の民族も海洋民族で、例えば、400年前に徳川家に滅ぼされた人達は今でも徳川を恨んでいますか?恨みませんよ。日本にはそういうものはない。

台湾でも、「あの国は何百年前に我々に対してこういうことをやったから、恨みを絶対忘れない」ということはないのです。それは台湾人にはない。

もう一つ言うと台湾人はね、これも前に一度言ったことがありますが、「有唐山公、無唐山媽」と言って、唐の国のおじいちゃんがあっても唐の国のおばあちゃんがいないのです。

台湾人の先祖は福建から、台湾に移住にして来て、ここの原住民の女性と結婚している。通婚しているんです。

ここの原住民は歴史的に研究しても、マレーポリネシア系です。だから、例えば戦争中には有名な高砂義勇隊がフィリピンに行って戦っているけど、彼らの言葉は現地の人に通じるようなことがあるんです。

日本の皇室に関心を持つのも台湾人の民族性でございます。3年前の9月6日、悠仁親王殿下がご誕生の時、台湾の我々日本語世代の人は全部手を叩いて、大変喜びました。

これは台湾人の日本皇室に対する自然な一つ流れ、心得でございます。当時、明治天皇様は台湾に関する御製をね、たくさん作って、台湾にご関心をお持ちになりました。 昭和天皇様は皇太子の時、台湾にも行啓されています。台湾人が日本の皇室に対して、一つの親近感を持っています。これは言葉では表現説明できません、これだけ言えます。

-------------------------------------------------------------------------

gtea さんが『台湾人と日本精神』へのご感想はこちらでご覧いただけます。
『日々洗心』 ブログ
http://gtea.iza.ne.jp/blog/entry/1711569/




もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:3 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
日本を愛する日本人へ ー台湾についての質問を蔡焜燦先生へどうぞ
2010-07-07 Wed 20:05

前回は6月20日の蔡焜燦先生に対する第二回のインタビューを掲載しましたが、
その日は日本の方々へのメッセージもありましたので、引き続きお載せします。


ところでこの蔡という私個人に対して、「この爺ちゃん一体何だろう」と思うかもしれません。申し送れましたが、私は戦争中、奈良の陸軍航空整備学校の生徒でした。

いわゆる日本語世代のひとりです。信じられないと思いますけど、今台湾には言われる日本文化を勉強する会は三つあります。

「台湾歌壇」「台湾俳句会」「台湾川柳会」。この三つ以外に、人数が一番多くて勉強しているお爺さん、お婆さんたち、なんと昔は「美しい日本語を守る会」という会名で勉強していておりますが、一応「友愛会」というグループが出来まして、毎月勉強していております。この中には川柳会の会員であり、俳句会の会員であり、台湾歌壇の和歌の会員である、という日本の短詩形文学を、全然違いますけれど、三つとも参加して勉強している方も数人おります。

「美しい日本語を守る会」、「美しい日本語を勉強する会」、日本の皆さんが日本で「美しい日本語を守る会」という会があるとか、私は今までまだ耳にしたことがありません。が、所謂、子供の日本語がだんだん荒っぽくなる。そのことを書いていることをよく新聞雑誌で読みます。

だから私たちこの美しい日本語を守る会だとか、例えば、短歌会の場合は、ブラジル以外で台湾くらいの集まりはないだろうと思います。

ブラジルは日本の移民が多いので、やはり日本の短詩形文化をグループで勉強しているのがありますが、それ以外は台湾くらいじゃないですか。まあそろそろ、この勉強会というようなものも、将来は消えて行きますが、所謂、この短詩形文化の「侘び」と「寂び」を英訳したり、外国で訳してもね、思い通りのようなものできないと思います。

皇后陛下の短歌集『瀬音』をある日本の大学先生がフランス語に訳して、フランス国内はおろか、南米の人たちまでが、皇后陛下のお歌を読んで感動しています。

IMG_7462.jpg  「皇后陛下の歌集『瀬音』」と書く蔡先生

私はその関係の本を二冊とも買いましたが、ただ一つ疑問を持っているのは、この「侘び」と「寂び」をフランスの方、南米の方が理解できるかどうかというクエスチョンマークが私の頭にあります。

将来は私は日本人以外には、この方面の短詩形文化は理解できなくなると思っています。それもこれから、若い子供たち、若い人たちに美しい日本語を教えないと、素晴らしい日本語が消えてしまうかもしれないから心配もしております。これは台湾の、もと日本人であった、「老頭児」の思い出でございます。

さてここまでお話して、ふと思い出したことは、皆さんが台湾に対して興味を持ってこのブログを読んでいると思います。

この年となって最近の日本のことを見ていますと、歯痒いくらいなこともありますが、しかしもっと真面目に、もっと国を愛して、もっと自己を犠牲にして、日本という国を建て直すという人たちがだんだん増えてきています。それに私は大きな期待を持っています。

そしてこのブログをご覧になって、台湾にも関心を持ってもらえたらと思います。

ただ台湾に対して関心を持たれながらも、まだ台湾のことで分からないことはたくさんあると思います。

そのときは、まずこのブログに対して、質問を出して頂きまして、それを私がお答えはできると思います。知ってることは知ってる、知らないことは知らない、記録にあるものはある、という形で。

例えば「台湾では民族はいくつに分かれてるか」とか…。

台湾には原住民だけで14族くらいの族になっています。この原住民たちの祖先は太平洋のミクロネシアのあたりから台湾に来たんですよね。 

現在私は蔡という苗字で、黄君は黄という苗字です。これはシナ大陸からきた苗字でありますが、台湾の学者の研究では、私たちのDNAの中には、殆ど彼らの言う「漢民族」の遺伝子はありません。「それは何故でしょう」というような質問などですね。

そういうものにお答えしたいと思います。




もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:18 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
蔡焜燦先生にインタビュー/名著『台湾人と日本精神』について
2010-06-29 Tue 13:59

6月20日の蔡焜燦先生に対する第二回のインタビューは著書である『台湾人と日本精神』の出版目的や、発行状況、それを巡る「生長の家」との訴訟の原因と経緯、についてです。以下はそれに対する蔡先生の回答です。


先回の黄君のインタビューで、どういうことを言ったが忘れましたが、台湾魂と大和魂と、台湾精神、日本精神というようなテーマで話しました。

私が『台湾人と日本精神』という本を書いた一つのきっかけは、その前に日本から十数名の大学の先生方がおいでになって、当時私がまだ現役で、台湾のシリコンバレーと言われる「科学園区」で会社を経営していたころ、日本から十数名の大学の先生方がおいでになりましたので、台北からお連れして、うちの会社をご覧になって頂いたり、サイエンスパークを回ったりしました。帰りもご一緒したので皆さんに当時の台湾のあらゆる状態を、先生方に申し上げたのですよ。

その中に、私は自称「愛日家」と言っているくらい日本が好きですので、中におられた先生が私の日本に対する考えに感動して、ぜひともそういう話を本に残しなさいと。これが私が『台湾人と日本精神』という本を書いた一つのきっかけです。

私は50数年来、心の中に残った思いのたけを、好きな日本の方に話したかったんです。

ただ蒋介石の国民党政府統治の40数年間は、こういうことは言えませんでしたし、書けませんでした。李登輝総統が総統になり、その後司馬遼太郎先生が台湾においでになり、李登輝総統と司馬先生が対談されました。司馬先生は台湾に二回取材においでなりましたが、殆ど私がお伴して台湾を回りました。そういう風な状態で、国民党の主席、代表だった李登輝総統が、堂々と司馬遼太郎先生に国民党政府は外来政権である、とはっきり申し上げているんですよね。

このように、言論が自由になったんですが、しかし、それでも40数年来の、50年近くの、国民党政府の圧政の話については、「これを責めていいか」、「これを書いていいか」と、いろいろ迷いがあった。もう本当は構わないんですけどね、いろいろ迷いがありました。

IMG_7460 (2)

まあ、そう考えながら、私の日本に対する思いを、この『台湾人と日本精神』という本にね。

日本の「日本教文社」、これは「生長の家」の出版社でございますが、そこからハードカバーの本を8刷まで出したんですが、当時の「生長の家」の副総裁の方が、「この本は政治的なことを取り上げている。日本教文社はこういうものは出版できない」と言って、一方的に出版を止めたんですね。

まあ、8刷りで何万冊か売れましたが。その後、小学館で文庫版が出て、今12刷か13刷。まだ静かに売られています。

日本在住の先生方らとか、弁護士の方が私に「教文社に対して提訴しろと、告訴しろ」と言いまして、それで二審目の高裁で和解の形を取り、新聞で教文社が「遺憾に思う」という広告を出して、争いは終わりました。

現在、私が訴訟を起こした時の「生長の家」副総裁の方は三代目の総裁になり、分裂しそうな状態になっています。

私の記憶としては、一番印象的に残ったのは、出版記念パーティーの時に、「私はこの
50年間、日本を愛している台湾人の心の思いを、この本を書きました」と、そういう風に参加者400人くらいに、お礼を申し上げました。

それから10年を経過しますけれど、今台湾のデパートの本屋でも、まだこの本が買えます。

黄君とは、台湾を愛しているある日本の宗教団体の責任者に近い方が、台湾独立と台湾がシナに呑み込まれないようにと、台湾にお祈りに来てくれました。その時に、この団体の方を案内していた黄君と初めて会ったんですが、電話で黄君は「私は中華民国国民として日本に行きましたが、台湾人として帰って来ました」と。

聞いてみたら、「それまでは反日教育で日本のことを教えられたけど、日本に着いてから、あれ?というような感じで、それから日台間のことを勉強してきて、台湾という自分の祖国を愛して、台湾という国のために頑張って行く」と言っていましたね。

台湾人がいかに、この東南アジアの国家の中で、しかも元殖民地で、反日教育を受けた子供たちー今は青年、壮年になっていますがー、彼らの年頃に新しい名前で「哈日族」というものが出来て、いろいろ日本のことを勉強したりしている。そして年上のわれわれ日本語世代と同じような気持ちで、「日本が好きだ」と言っている。

その黄君が、この本のことに関して「いろんなことを教えてくれないか」と言ったので、私は気軽にOKだと答え、このように話しているのです。



蔡先生のお話を伺った後で、私は訂正をお願いしました。
私が初めて蔡先生に連絡したとき、私が話したのは「私は中国人として日本に行きましたが、台湾人として帰って来ました」だからです。ところが蔡先生がおっしゃるには、「あなたたちの世代は中華民国教育の下で育ったのだから、中華民国国民として日本に行きました、と言うべきだ。中国人として、などというべきではない」とのことです。
なるほど!


蔡焜燦先生の『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい』を、
まだ読んでいない方のために紹介します。

台湾人と日本精神(リップンチェンシン)―日本人よ胸をはりなさい

目次
第1章 台湾の恩人・司馬遼太郎
第2章 台湾近代化の礎を築いた日本統治時代
第3章 「二つの祖国」―「戦争」そして「終戦」
第4章 “祖国”の裏切り
第5章 日本人よ胸を張りなさい
第6章 『台湾論』その後

小学館文庫から650円で発売されています。




もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:16 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
日本は台湾を殖民地にしなかった ー蔡焜燦先生が語る台日歴史の真相
2010-06-12 Sat 18:34

2000年に小林よしのり先生の『台湾論』を読んで大きな衝撃を受けた私は、続けてそこに書かれていた参考文献の『台湾紀行』と『台湾人と日本精神(リップチェンシン)』を読み、蔡焜燦(サイ・コンサン)という名の人を知りました。

司馬遼太郎先生の『台湾紀行』には、蔡先生が司馬先生の案内役「老台北」として登場します。『台湾人と日本精神』は蔡先生の書いた本です。

蔡先生ときちんと接触するようになったのは2005年のことです。台湾へ祈祷に来た大本教の関係者の方々を案内したときにお会いしたのでした。そのとき私は「私は中国人として日本に勉強しに行き、台湾人になって帰ってきた“台湾の子”です」と挨拶すると、蔡先生の心を打ったようです。それ以降、師弟の縁で結ばれました。

たくさんの日本人が『台湾人と日本精神』を読んで励まされ、そして感動しています。蔡先生に会うために台湾へいらっしゃる人も大勢います。そのとき蔡先生はお体の調子がいい限りは喜んで歓迎の宴席を設けます。先生は後輩を愛し、育てることに心を砕きます。そして対日交流が次の世代に受け継がれることを願っています。だから私もよくその席に呼ばれます。

宴会では台湾人も日本人も分け隔てることなく、蔡式ユーモアで笑わせ、次にはみんなの歴史認識不足を指摘し、教訓を垂れるのです。このような対話を通じて、私もさらに対日関係が「切っても切れない」ものだと理解しました。

私は蔡先生と夫人の李明霞さんに聞いた過去の記録をより多くの日本人にお伝えしたいと思います。蔡先生も喜んで賛成してくれています。今後は彼のお体の具合を見ながら、このブログを通じて、歴史の真実に関する口述筆記を紹介します。蔡先生は、このブログを読んで歴史問題で質問がある人は提示してほしいとおっしゃっています。喜んでお答えするとのことです。

以下は6月10日の第一回の取材で私がした質問への回答内容です。


私は蔡焜燦と申します。今日、私の孫みたいな黄敏慧さんからいろいろ教えてくださいということで、お会いしましたが、皆さんご存知のように、黄君は戦後の台湾生まれのことに、国民党政府の圧政の元に、学校時代、小学校から反日教育をさせられた世代の人ですが、黄君は自ら、自分からいろんな方面からの勉強で自分の祖国台湾を愛するようになり、今、彼女なりのできる範囲での台湾と日本との間の繋がりで努力しております。

黄君が私に台湾魂というのはあるか、日本精神とはどんなもののと、私が書いた『「台湾人と日本精神』という本を彼女は読んでおりました。それで、改まってと、というと、ちょっとなんですが、二人で、まあ、ざっくばらんに、その私が「台湾魂」とは何か、「日本精神」とは何か、というようなことを話そうと思っていますけどね。

蔡焜燦先生  難しいね……。  
  
これは私に言わせますと、台湾にだけじゃないですね。韓国の人には韓国魂がある、フィリピンの人にはフィリピン魂がある、タイの人はタイ魂がある、というような意味で、それぞれ自分の祖国を愛する人、その人たちが行うことにはその国の魂がこもってる、私はそう思います。

実は、この『「台湾人と日本精神』の出版するとき、東京で出版記念パーティーをやりましたが、そのときに、私の尊敬する阿川弘之先生がご挨拶のときに、大変素晴らしいと、「蔡先生よ、この次に本を出されるなら、日本人と台湾精神を書いてください」と皆さんの前で発表しました。もう皆さんが拍手して頑張れよと励ましてくれましたが、「台湾人と日本精神」、「日本人と台湾精神」、「台湾魂」「大和魂」ですね。

日本精神というのは、私たちに言わせますと、「勤勉で法律を守る、時間を守る、真面目に働く、人を騙さない」です。もちろん「国を愛している」、それから「世界の人々を愛している」もです。このように全てのいいことが「日本精神」であります。

これはいわゆる、先ほど私が言った「台湾魂」「大和魂」、同じことですが、全て国を愛する、という立場から、私は出発をしてると思うんですね。台湾魂を持って、台湾という国を愛する、台湾という国を守る。大和魂を持って、日本という国を守り、日本人を守り、隣りの国々と仲良くやっていく、これが日本精神であります。

具体的に言いますと、1895年台湾は日清戦争で日本は清国に勝って、その時の「和平条約」で当時の国際的な習慣から、負けたほうは戦費を賠償し、領土を割譲するという、その時代の習慣で、清の国は台湾とそれに付属する諸島を日本に永久割譲をしたのであります。

1895年、明治28年の4月、5月から、日本軍が台湾に上陸して、いろいろ抵抗分子、反抗分子というのがありましたが、北白川宮能久親王が近衛師団を率いて台湾を征伐に来ました。ちょうど6月17日に、当時初代総督で樺山資紀海軍大将が、台北で全台湾の人々にこういうことを言いました。「今日から台湾は日本国の領土であり」、これは正式に、清朝から譲られたものであり、ということは発表しました。

その後、日本政府は台湾には台湾総督府というのを作り、樺山資紀は初代台湾総督ですが、台湾におる台湾人に二年間の間にあなた方の国籍をね、あなた方の希望を決めなさい。もし、清国民として清国に帰りたい方は、持っている財産から全て持って帰って清に帰りなさい。台湾に残る人たちは二年後から全て日本国籍である、ということまで宣告してあります。

現在、台湾に残っている我々は、私たちは私たちの先祖の選択により、先祖たちは清国の国民から日本国民になりましたが、私たちは生まれたときから日本人でした。一例を挙げますと、私たちの尊敬する李登輝総統は22歳まで日本人でした。私は18歳まで日本人でしたが、私は奈良で陸軍少年飛行兵として、終戦を迎えました。だから言うなれば、私は今の日本の若い人たちの大先輩ですよね、日本人として。

1945年に日本が敗戦して、連合国軍が蒋介石軍を派遣して台湾を占領して来たということです。ちょうど台湾は日本の領土になってから50年目でした。この50年間、日本は台湾でどういうことをしたか、ヨーロッパのイギリス、フランス、オランダ、ポルトガル、スペイン、まあ、大体そういうふうな国家がアジアに殖民地を持っていた。が、日本は、日本政府は台湾を自国の領土とし、殖民地として扱っていませんでした。

言うならば、北海道の日本人も、沖縄の日本人も、朝鮮半島の日本人も、サハリンの日本人も、台湾の日本人も全て日本人でした。私は小さい時から、日本本島の子供たちと同じ教育をやってもらいました。私は特に強調していることは、日本統治になってから、日本はシナ大陸から来た我々の先祖にどんなことを教えたか、ひとつは「公」と「私」のけじめをはっきり教えてくれました。

現在、世界の第二の経済大国と言われている中国共産政府、及び中国の13億の人民、いわゆる彼らが言う漢民族には、「公」ということ、「公」の精神がありません。全てが「私」だけです。私、自分、或いは一族のことしか考えていません。「公」という国、ということについては、彼らは考えていません。

この「公と私」をはっきり教えてくれた日本の教育。そしてこの「公と私」の教育を消化した台湾人。消化して頑張って来たのは、これはある意味ではひとつの「台湾魂」です。

それから日本は台湾人に物を作ることを教えてくれました。例えば、昭和10年前後、世界の樟脳のシェアは日本が85%を占めた。その85%の85%は台湾で生産されたものです。殖民地と言いますと、各国ではその殖民地から搾り取るだけというのが政策でありますが、日本は台湾は自国の領土だと、台湾人は日本人であると、殖民地民ではないのだというという状態で、台湾を経営していました。

だから、公私を弁えることと、物を作ること、そして学校で習った全ての道徳教育などを固めたのが、私は「台湾魂」の発露だと思います。

国を愛する、社会を愛する、隣りの国を愛する、そのために、自己を犠牲にしてでも働く、行動を取る。この全てのいいものが、もう一度申し上げますが、「台湾魂」だと私は思います。

この「台湾魂」ことは、日本統治時代、私たちは「大和魂」だと言っていました。「大和魂」即ち「日本精神」です。

戦後、日本はアメリカ軍に占領されて、アメリカ軍の政策で一時は「大和魂(日本精神)」は滅びような、消えるような状態もありました。ことに、学校教育で日教組の教職員たちの祖国日本を否定するような教育は、今、外国人になってしまった私たち日本語世代の人にとっても、耐えられないことであります。

あの素晴らしい国旗、日の丸を否定したり、国歌を唄わない、事実、日本の新聞や雑誌で読むと、私は非常に悲しくなります。それが近年、各地方で国を愛する、日本という国を愛する人たちがたくさん出て来て、子供たちに或いはその子供の若い親に、国ということを教え、国を愛するということを教えて来ております。

これは滅び掛かっていた「日本精神」が徐々に帰ってきている、という事実を、私は台湾人ですが、非常に喜んでいます。

「日本精神」即ち「台湾精神」。
「台湾魂」即ち「大和魂」。

台湾と日本は切っても切れない関係であります。これは文化でも、経済でも、国防でも、民間交流でも、切っても切れません。

だから私はいつも、台湾と日本は「運命共同体」である、ということを叫んでいます。
その意味で、私たちはあらゆる方向で交流を、もっと固めていかないといけません。




もしよければ、このブログの応援クリックをお願いいたします。
人気ブログランキングへ
別窓 | 蔡焜燦先生の思い | コメント:6 | トラックバック:0 | ∧top | under∨
| 台湾魂と日本精神 |
copyright © 2006 台湾魂と日本精神 all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
台湾留学サポート
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。