新高山百合
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二‧二八事件の真相の裏ーピント外れの相互認識
2011-01-13 Thu 12:59

  二‧二八事件に関わった先輩の事件に対する見解を教えて下さい。


  終戦当初、日本人は自分の身上に降って来た火の粉を打ち拂うのに大わらわで、台湾人の事なんか構っていなかった。その上通信網も破壊されて、時局に関する消息は無く、何が何だかわからず、文字通りに五里霧中の有様だった。

そこへシナ軍が身分を偽って、失地台湾を日本から取り戻したのだと我々を騙したのに、我々はシナ人に対して無知であった上、その虚言を軽信して祖国に復帰したとの口車に乗って熱烈に奴等を歓迎した。

シナ人は征服者然として、台湾人を見下げた本心を隠匿して、台湾同胞よと親しげに我々と抱き合った。それが所謂「光復」という芝居の序幕であった。舞台上では「光復」と名乗るテーマのもとにストーリが進んで行く。

脇役の台湾人は本気で「祖国復帰」を喜び、各地に歓迎アーチを建てて祝い、宴を設けて歓待した。

主役シナ人は假面の下で、暗に征服者として、新しい占領地人民の消滅すべき対象人物を名簿に依って、着々と計画を進める。

「光復」と言う共同点を掲げて相反する事が進行する焦点ずれによる双方関係の矛盾が、時と共に量変が進んで1947年2月28日に至って、シナ人は役人と民間の微細なる衝突を利用して、計画中の殺戳を敢行し、相互関係の内容が質的に突変して、征服者の原貌を赤裸々に見せ付けたのだ。

この焦点ずれが二‧二八事件の根本的原因だったのである。一般に挙げられた事象は表面の諸現像にすぎない。

此処で特に強調したいのは、シナ人に清算すべき台湾人の名簿を提供したのは「半山」と軽蔑された手先になった台湾人である事。奴等は敵以上に憎らしい。




二‧二八事件の詳細に関しては、こちらをご覧ください。
『 二‧二八事件 - Wikipedia 』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6



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戦時中に会った悪い教師と純粋な将校(下)
2010-11-22 Mon 17:57

これは郭振純先輩のインタビュー「戦時中に会った悪い教師と純粋な将校(上)」の続き(後編)です。


二人の若武者を見送った僕は校庭の鳳凰木の木蔭に独り坐って、澄み切った青空を眺めながら、今先の侮辱を思い出して頬が熱くなって来るのを感じた。そして優しい母の顔が走馬燈のように青空を横切った。続いて退学処分に遭った後に起こる様々な假想に思路が閉ざされてぽかんとなった。

牧野少尉の胸を張って「がんばれ!」の掛け声が鼓膜を震わせて僕を呼び醒ました。

この侮りを雪ぐべく全身の血が沸き立って、決然と「構うもんか!」と叫んで弾くように立ち上がり、チビッチョの官舎へ向けて足を大きく踏み出した。

空地を利用して作物を作る風気に乗って、秋山先生が寮生を動員して作った水田の畦に立って、出始めた稲の穂波に見とれていた所へ、僕が背後から「先生」と呼び掛けると、先生は一寸びっくりしたように後を振り向いた。
僕だと分かると、「何だネグロ」と忌々しく怒鳴った。
「ネグロではありません。郭振純です!」

流石に剣道三段の彼は僕の声色で内心を読み取ったらしく、
「生意気言うな!生蕃!」と叫びつつ、畦から僕の面前に近づいて来た。
「先生でも生徒の親を侮辱する権利はありません。僕の体内に豚の血が流れているとは持っての外です!」
「黙れ!こん畜生!」と叫ぶや拳を僕の顔目掛けて振った。
それを僕が素早く交わしたのに、狂犬さながらに、いきり立った彼は、すかさずに我が胸を直突した。

顔への一撃をかわした瞬間、僕の服従心の慣性が反射的に働いて、折角の勇気をたじろがした。この一瞬の躊躇が禍してチビッチョの直突を受けてよろめき左足を背後の水路にとられて、仰向けに倒れた。その拍子に無意識に伸ばした両腕が相手の襟を掴み、同時に屈した右足をその下腹に当てて、猛然と突き放したら、その短躯は僕の頭上で抛物線を描いて田圃の中に落ち込んだ。

彼は自悦する田圃に等身大の凹みを作ったのだ。威厳のシンボルである真っ白い官服は泥に塗れ、その様は溝に嵌った、哀れっぽい犬そのものだった。

僕が身を起こすと、前方の柑桔園から田中先生と池田教官が三八式歩兵銃を腕に、微笑んで僕に早く行け!と手で合図していた。

自分が無中でやらかした事に不安を感じたが、すぐ冷静に返り、舎監の小柳先生へ事の経過を報告に行って処分を待った。

些かの悔いも感じないばかりか、淡然として今先、当初の我が意のままに事を成しとげた快感に浸った。

翌日は禁足を命ぜられて寮舎で処分を待った。午後になって小柳先生の奥様が見えて、教務会議の様子を知らせてくれた。

「秋山先生が退学させるべきだと堅く主張したが、小柳先生と振純さんの級主任が秋山先生の暴言を詰責、一方では、池田教官と田中先生の証言であなたの行為は暴行でない事になったので、校長先生は禁足一ヶ月の裁決を下された。そして、校内で『チャンコロ』、『生蕃』の使用を禁止した。振純さん、あなた勝ったのよ! そうそう、良い話を一つ言い忘れたわ。会議散会の時、田中先生が大声で木島師範に『先生、良い弟子を育てましたね』と仰ったら、木島師範は『郭振純は学以致用、無条件で初段に進級』と答えられたとのことです。禁足処分が明けたら、赤飯を作って上げるわ。そして黒帯をお祝いに!」と奥様はつけたした。



『戦時中に会った悪い教師と純粋な将校(上)』
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戦時中に会った悪い教師と純粋な将校(上)
2010-09-10 Fri 12:50

前回の郭振純先輩のインタビュー「投獄中に生きた日本の先生の教え」を続けます。


  よく先輩たちから、日本人の先生はとても厳しかったとも、優しかったとも、そして意地悪もいたとも聞かされて来ましたが、郭先輩の場合はどうでしたか?


  日本統治中の学生生活中に出会った良い先生方が懐かしく、よく思い出話しにも出している。それに対して悪い先生の事はあまり話題にしてこなかったので、僕が出会った悪い方の先生について話しましょう。

屏東農業学校在学中のことでした。

大東亜戦争の最中で、よく航空隊奉仕作業にかり出されて、たまたまその時に知り合った二人の若い飛行将校が休日に、貴重なサクランボの缶詰を帯えて学寮の僕達を訪れた。彼らの軍人生活や爆撃の話の勇ましいこと、みんな一心に耳を傾け、まるで英雄と話しているような気持ちになった。

僕が気を利かしてサクランボを皿に分けて出したのを、牧野少尉が喜んで「あ、やっぱり気が利くのはお前だ!作業でも一番よく働いていたから、道理で皆より黒く日焼している」と褒めそやしたところへ、何時入って来たのか、皆からチビッチョと見下げられていた秋山先生がだしぬけに「黒いのはどんな豚の血が入ってるか、知れたもんか!」と口を入れたものだから全員が爆笑した。僕は人よりも少し肌の色が濃いのですが、平素の侮辱に堪える惰性により、引きつられて馬鹿笑いをした。

ところがさっきまであんなにほがらかに笑っていた牧野少尉は、口を一文字につぐんで黙っている。そして、二人の若武者は互いに目くばせをして立ち上がり、軍刀を取って、皆に別れの挨拶をした。「もう遅いから帰える。来週出陣しなかったら又来るよ!」と。

玄関まで見送った僕の肩を叩いて牧野少尉が「がんばれ!」と力強い声で励ましをくれた。

そして同伴の福田少尉に振り向いて「見たか福田!教師たる者がこんな調子だから、巡査連中は云うまでもない!」。

「これが戦地だったら、引っぱたいてやったよ!」と福田少尉が苦々しく答えた。二人の若武者は濁世の悪に染ってない純真な心を持っていたから、台湾人に対して優越的な違和感が無かったのだ。

そう言って別れたが、彼らが再び学寮を訪ねて来ることはなかった。あの航空隊の飛行機は、直接戦地に向うものだった。もう半世紀以上前の出来事だが、二人の凛々しい姿は今も鮮明に思いだされる……。


あなたは取材で日本人の良い話を聞いたでしょう。確かにそれも真実です。でも台湾に来ていた日本人は決していい人間ばかりじゃありません。

又、僕が悪い先生の話をしたからと言って、それがすべてでもありません。むしろ少数でしょう。台湾人の中にも我を忘れて日本人気どりで、日本人よりも台湾人を蔑むのが沢山いました。

そんなのを気にしていては生きて行けません。そんな輩を日本人だろうが、台湾人だろうが、虫けら同様に見てました。





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投獄中に生きた日本の先生の教え
2010-07-20 Tue 17:25

台湾独立派が尊敬して止まない郭振純先輩は日本教育を受け、戦後は国民党によって政治犯として22年2ヶ月間投獄されました。前回の郭先輩のインタビュー「日本の先生に習った「自分の道を歩め」を続けます。



  先日は「自分の道を歩め」を人生航路の羅盤針として波瀾万丈の青春期を乗り切って来られた様子を聞かせてもらいました。

その時に受けた感動を胸に『煉獄の彼方』を更に読んで行くうち、よく耐え抜かれたと感じました。先輩の苦しみを克服する力や正確な判断力などには敬服するばかりです。

今日は謎の句「ブルナ・ラシク」についてお聞かせてください。


  ありがとう。よく拙文を読んでくれた。

もともと芸術は主観的なもので作者と鑑賞側の焦点が重なった時に、深く入った探索が始まるのだから、こんな嬉しい出会いは初めてだ。今あなたが提出した問題は考える程に難しくなるもので、客観的に現像だけについて話しましょう。

一般に、外界の刺激に対する反応は、感受性の個人差によって違うから、往々にしてその結果が常識では考えられないものになることを先ず承知して下さい。では、僕個人の基本条件として、良き家族成員のお陰で、家庭圧力がなかったことを前提にして進めましょう。

あの肌を擦れ合わした狭い空間で複雑極まる人際関係と管理側の圧力は言語では表現できるものでなかった。ところが僕には恵みがあった。

即ち「ブルナ・ラシク」という教えを授けられていたのだ。

それは屏東農業学校の三年級に進級し、初めて教室に入って新任の主任教諭、東京帝国大学農学士の新田稔先生の来臨を待っていた。その時、同級生皆が黒板に掛けられていた額ぶちにある「ブルナラシク」の言葉が、ラテン語か、ブラジル語か、ドイツ語か、などと議論紛々したことが懐かしく思い出される。

それが正真正銘の日本語だった。人の日常の生活態度として「・・・ぶるな、・・・らしくせよ」という警句を新田先生から諭された時、自分らの低能さに皆うなったよ。

本題に入って、牢室内の別の圧力を外して、問題の中心である人間関係を話しましょう。

成員が教授を筆頭に博士、医者、教員、百姓、工人、商人、公務員からポコペン、チャイニーズが入り、混ざっている十畳の鉄格子の中で22年間生きて来た。

出身の複雑性から個人修養、境遇の異なる人達が囚人という同一身分下での共同生活を、角を立てずに生きるには、相手を見極めることだ。

破廉恥犯の監獄と違って、政治犯の我々は牢獄を学問と修身の道場と化した。従って、質の個人差による「討論と争論」の混乱が発生する。この時、相手を見極めてあしらう態度がポイント。即ち「ブルナ・ラシク」を生かして摩擦を起こさないことだ。

特にがむしゃらな青ニオのマルクスボーイには発言権を与え、尊重してやることはない。更に個人の尊厳が冒される時には毅然として「ラシク」を貫徹して自分の道を歩み通した。

IMG_7659 (2)
インタビュー時の毅然とした顔立ちの郭振純先輩

だから22年間の非人生活を僕は恵まれた教養「自分の道を歩み」を心に、「ブルナ・ラシク」を手足として生き抜いて来た。

ここで改めてそれを恵んで下さった恩師方にお礼を言うと共に、誇りを奉げます。





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日本の先生に習った「自分の道を歩め」
2010-06-21 Mon 19:30

前回、『「思いやりの心」が国を興し、人を育てる』 の一文であるように、日本教育での校訓が郭振純先輩に大きな影響を及ぼしたことに興味を持ちました。
以下は私の質問に対する郭振純先輩の回答です。


  本文の中にあった先輩の座右の銘とも言うべき「自分の道を歩め」について、もっと詳しく話してくださいませんか。今の私でもその内容は深すぎます。十代の幼心に果たしてどう映ったかが知りたいのです。

  僕が受けた初等教育は昭和七年から昭和十二年まで。場所は台南市立港公学校(今の協進国民学校の前身)で、「自分の道を歩め」は五ヶ条から成る当校の首条で、他の四ヶ条を総括している。
Scan004.jpg

教えんとするところは、個人にとって、本当の人生の始まりは、他人との関係をも円満に保てる自己の確立で、その時に人生の根が伸び、萌芽して花が咲くのです。

もちろん、この難しい哲学を当時の僕等には馬耳東風の筈だったが、その堅い種の皮を先生方が甘く、やさしい仕草で脹らまして幼心に播いてくださったのでした。やがてその種が各個の苗埔で芽生え、多様な苗が育って生長して行った。

40名近いクラスメートの中で、3名も蒋魔撃退運動に参加した。死刑判決を受けた頼正亮、二度も入獄(計25年)した陳金火、そして無期懲役となった僕のことだ。僕が入獄22年2ヶ月目に蒋魔が天誅を受けて死去したため、僕と陳金火の二人は幸いにも、ようやく仮釈放されたのだった。

よって知るべし、校訓の価値と恩師方の愛の深さを。ここで改めて当時の諸先生方にお礼を申し上げると共に、師としての誇りの華を奉げます。ついでですが、3名ばかりでなく、先輩にも後輩にも何名もいたが、獄中では会えなかったので、詳細は省きます。

今述べたのは「自分の道を歩め」とは何かで、それを実行する具体的な方法は、更に長じて教えられた「ブルナ・ラシク」が指針です。詳細はMOKU連載中ですから、それを読まれてから、又話しましょう。




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(転載)「思いやりの心」が国を興し、人を育てる
2010-06-04 Fri 19:41

続いて、皆さんに台湾独立派が尊敬して止まない「郭振純先輩」を紹介致します。
蔡焜燦先生は郭振純先輩について彼の最も尊敬する一人だとおっしゃっています。

私は先ず下記のインタビュー記事を通して、皆さんに彼の人生経歴、思想、理念を紹介したいと思います。今後郭前輩の文章で、さらに深く228事件と白色テロを理解し、そこから「台湾魂と日本精神」とは何かを考えたいと思います。

この文章は郭振純先輩が月刊誌『MOKU』に連載中の「煉獄の彼方」の転載です。
許可をいただきました編集長に心から感謝いたします。



特別インタビュー  ●タイワン建国運動家  郭 振純 

「思いやりの心」が国を興し、人を育てる
       タイワン建国の原動力は美しい日本精神に


その半生は、闘いの連続であった。 
敗戦した日本軍が、植民地であったタイワンを去った後、正当な理由も無く突如として全島を占拠した蒋介石・国民党。その理不尽な政権によって逮捕され、身の毛もよだつほどの拷問に耐え、二十二年に及ぶ獄中生活を余儀なくされた郭振純氏は、出獄後もタイワン建国のための幾多の困難と閥い続けてきた。
 
彼が生涯を賭して求めていることは、ただ一つ。「タイワン建国」それだけである。齢八十四歳を数えるその彼を支えているもの。それは日本では死語と化して久しい「日本精神」である。サムライと呼ばれ、獄中でも一目置かれた彼の毅然とした振る舞いは、彼が青年期までに受けた日本教育の精華でもあった。

彼は言う「日本精神の本質は〝思いやりの心〟」と。
タイワンに限らず「思いやりの心」は建国の礎であり、民族、国家、社会、家族の礎でもある。八十四年間が常に思いやりの心で貫かれていた郭振純氏の生死を懸けたタイワン建国運動を通して見えてくるものは……。

『MOKU』2009年6月号   郭 振純 かく‐しんじゆん
タイワン建国運動家。1925年、日本統治下の台湾・台南市に生まれる。42年、高雄州立屏東農業学校農科卒業。翌年、日本陸軍に入隊。45年、日本軍の敗戦により除隊。47年、蒋介石・国民党の圧政下で起きた2・28事件をきっかけに、台南飛行場の攻撃に参加。香港経由で広東、アモイに出国。49年に帰国しタイワン建国運動を開始。53年、連続非合法集会参加の廉(かど)で逮捕。無期懲役の判決を得て投獄される。75年に出獄するまでの22年もの間、各地の軍人監獄に収監される。出獄後、グアテマラでコーヒー農園を経営している次兄のもとに身を寄せる。その後、戒厳令下で行われた台湾省長選挙をきっかけに帰国。政治組織や団体に属することなく、タイワン人としての建国運動に尽カし、台湾の多くの大学生や研究生の精神的支柱として現在も精力的に活動している。「五十年代白色恐怖案件平反促進会」の常務理事を務める。著書に『耕甘藷園的人』(玉山社出版刊)がある。



私は日本人に成りきろうとしてきた


――郭先生は、日本の占領下にあった台湾に生まれ第二次大戦後、日本軍が撤退した後に中国大陸から共内戦で敗走してきた蒋介石・国民党当局に「国家反逆分子」として捕らえられ、二十八歳から五十歳まで二十二年もの間、獄中生活を強いられていたわけですね。

先生が今まとめられている、凄惨な獄中生活を綴られた手記『煉獄の彼方』を読ませていただきますと、拷問を受けられたときの目をつぶりたくなるような生々しさと同時に、先生が、それでも毅然として不条理な取調官に言い返す件(くだり)などは、日本の、文字通り「サムライ」そのものですね。

 私は大正十四年(一九二五)にタイワンで日本国民として生まれました。私を知っている方々からは、今でも「サムライ」と言われます……。しかしね、そんな私でも、獄中での取り調べで真つ裸にされて、豚を担ぐように棒に縛られたときには、さすがに堪忍袋の緒が切れましたよ。

実は、そのとき、宮本武蔵が頭に浮かんできたんですよ。決闘していた武蔵が剣を叩き落とされて、それでも体当たりで相手を倒し、首筋に喘み付いた。それが思い起こされて、そのとおりに私もやったんです。もう今日で自分の命も終わりだと覚悟を決めて……ね。看守長は驚いていましたね。

――その手記は弊誌で連載として掲載させていただく予定でおりますが、先生は囚われの身となる前から、そして現在も、台湾の独立を目指して活動を続けておられます。その精神を持続せるものは何なのでしようか?

 私がやっているのは独立運動ではありません。建国運動です。なぜなら、タイワンは一度として建国したことがないからです。私の願いは、タイワン人自身がタイワン人として国を建てることなのです。

――なるほど、独立ではなく建国なのですね。台湾という土地は、オランダ、清朝、日本、中華民国政府と、植民統治の歴史の連続で、独立どころか建国さえできなかったわけですからね。現在も、国連加盟国は百九十二カ国ありますが、台湾は国としては認められておらず、国際法上は空白地となっています。二千三百万という人口を抱え、GDP六千三百億米ドル(二〇〇五年)、一人当たりでは二万九千六百米ドル(二〇〇六年)世界一八位という世界的にも優れた経済活動を行っているにもかかわらずです。そうすると、ますます台湾が国として認められないことの矛盾を感じます。

 そうなんです。ですから、その建国を私は目指しているのだということを、まず申し上げておきたいのです。そして、私がどういう精神で建国運動を続けてきたかをお話しする前に、一般に私と同じ年代の人々がどういう意識を持っていたかを述べておきたいと思います。

日清戦争に勝った日本が、明治二十八年(一八九五)にタイワンを占領してから大正時代にかけては、まだ支那が清朝だったころで、大陸から渡ってきた人たちの中には、自分たちが支那人だという意識はなく唐人(からびと)と称していました。福建省や広東省の沿岸部に住む人々が新天地を求めてやってきたわけですが、そこへ日本軍が占領のためにやってきた。唐人は日本軍に抵抗して戦いましたが結局は負けてしまう。いくら日本教育を強制されても、自分たちは日本人ではないと強く思っていた。ところが、いざ日本の統治が始まると、支那で経験してきた高額の税金をむしり取るような官僚もいないし、土匪(=土着の盗賊)もいない。日本人に対する敵対心が薄れていきました。

次の世代の人たちは、日本の統治によって徐々に変わっていくタイワン社会を目の当たりにして、その統治の手法やタイワン人に接する日本人の生き方に興味を持ち始め、日本人と一緒に住めるという感覚まで持つようになった。

決定的だったのは、占領から間もなく日本人が広めた「学校」です。それほどたくさんではなかったし小学校程度の勉強ではあったけれど、まったく無学だった人たちが現代教育を受けることができたわけです。こうして学ぶことを知り、やがて知識を身につけた人たちが社会に出るころになると、唐人的な考えは完全になくなっていきました。と同時に、日本文化に触れた人々が高等学校や大学へ進学していくにつれて、親日とまではいかなくても、争いのない平和な日々が続くことのありがたさを実感するようになりました。

これが昭和のころになると、盲目的に日本を崇拝し日本に媚びるような心理を持った人たちと一方では、もっと広い知識や見地から他国と比較したうえで日本の文化の素晴らしさを実感して、日本文化の美しさから経済的にも精神的にも歓迎すべきものであると判断した知識人たちと、二つの種類の人々が生まれていきました。後者の知識人たちは、日本人以上に日本人になろうという意識を持っていました。ですから、一般的に言われる「日本統治時代の台湾には日台の差別は非常に濃かった」という言い方は ある角度から見ればそうだったかもしれないけれど、すべてがそうではなかった。少なくとも、私の目に映った日本統治は、われわれが誇りとなし得べきものを残してくれました。

そう、私たちは日本に靡いたのではなく、日本の文化に惚れたのです。この美しい文化を享受して、その文化の発展にこの地で貢献したい、そう思って日本人になりきろうとしたんですよ。私たちは日本人――当時は内地人と言っていたけれど――彼らと一緒に教育を受けて、内地人以上にクラスや軍隊の中でトップに立ったりもしたのです。

今もよく聞かれるんですよ。 
「なぜそんなに日本が好きなのか」と。「アメリカの方がいいじゃないか」とも。けれど、それは違う。華やかさや文明の発展度合という点ではアメリカは魅力的かもしれないけれど、私が親日的感情を持つのは文化にその理由があるのです。日本文化の深層を理解したうえでのことです。欧米人にも日本に帰化する人がいますが、その気持ちが私にはよく分かる。私は日本の文化に吸い込まれたのです。


建国は手段、目的は世界の中で生きること


――先生のおっしゃる美しい文化とは、どういうことでしようか?

 一言で言うと「思いやりの心」です。日本精神あるいは大和魂とか武士道などと難しく言う必要はありません。日本文化の深層を流れているものは「思いやりの心」、人間の生も死もその思いやりの心で貫かれていて、その心を礎にして人間関係も、道徳も 学問も含めたあらゆる文化が成り立っている。それが日本文化のいちばんきれいなところです。

――なるほど、しかし皮肉というか、恥ずかしい限りですが、先生のおっしゃる思いやりの心が、今いちばん欠けているのが日本ではないかと感じています。モンスターペアレント、モンスターペイシェント、 そして家族間の殺人や年間三万人を超える自殺者。これらも自分自身を含めた、あるいは家族への思いやりの心がなくなった状の表れです。文化として世界でいちばんきれいな心象というものがなくなっているのが、当の私たち日本ではないかと思うと忸怩(じくじ)たる思いを禁じ得ませんね。

しかし、その思いやりの心を持った豊かな文化的国家を建てたいというのが、先生の人生を賭けた志、あるいは悲願なのですね。

 そのとおりです。

――大東亜戦争の後、蒋介石がやってきて、二、二八事件が起き、そして反政府運動を取り締まる白色テロが横行します。その後、蒋経国の時代を経て、李登輝、陳水扁、馬英九と総統が続きます。陳水扁氏以外は国民党の総統です。不思議に思いますのは 国民党政権が掲げる法律は、中国国民党が作った中華民国憲法です。中華民国は、国共内戦で敗れ台湾に逃れます。台湾は、国際法上サンフランシスコ講和条約時までは日本領土です。しかも中華民国の主張する領土に至っては清国時代のそれとそう違わない。南京から台北に遷都したということになっていますが、現実的にみれば、中華民国はある意味で虚構の国家ということになってしまいます。

その虚構の国家が台湾全土、あるいは中国(大陸)、チベツト、ウイグルなど、現在、中華人民共和国が実効支配する領土を将来支配するという論法は、矛盾であるばかりでなく幻想でしかないと思うのです。むしろ、台湾は台湾として、一個の独立した文明体であり、文化を持っているのですから、先生のおっしゃるように新しい国を建国しようという強固な意志が全国民にあってしかるべきだろうと思うのです。

しかも、国民党の方々は「本土復帰」と言い、民進党(民主進歩党)の方々は「独立」とおっしゃる。先生だけが「建国」と台湾人民にとって最も必要なことは、まず台湾人民の手による台湾のための「建国」であろうと思われます。そうすると、国民党であっても民進党であっても、この理念には台湾人であればすべての人が同意できるはずだし、そういう時代に来ていると思うのですが?

 そうなのです。そのために必要なのは「自分の道を歩め」です。これは、吉田松陰も門下生たちに言い残していることです。

――松陰は従弟の玉木彦介の元服に当たって「士規七則」という教えを認(したた)めますが、それは、同時に松下村塾(しょうかそんじゅく)の精神になります。そこでは「志を立て、友を選び、仁義の道を尊び聖賢の道を慕いながら自分の道を歩め」ということを力説していますね。

 蒋介石一派は征服者のつもりでやってきました。民主や人権という概念は、彼らには通用しません。そして、タイワン人民自身にも征服されることを望んでいるようなところがあった。これは世界中のどこにでもある無力で弱い者でしかない人民が武力や権力という強いものに対して抱く「長いものには巻かれろ」という心理です。主体性などそこにはありません。

――エジプト神話に出てくるウロボロス(古典ギリシヤ語で「尾を飲み込む(蛇)」の意)ですね。蛇が自分の尻尾を飲み込んでいる姿です。

現在の国民党政府の取っている戦略というか政策は、非常に分かりにくい。元はといえば中国共産党と戦って敗れて逃れてきた中国国民党が、その敵であった共産党という蛇に飲み込まれようとしている、いや、飲み込まれたがっている。これは再生ではなく、妥協、従属、そして隷属へのシナリオにすぎないのではないですか?

台湾は中国領土の一部と主張する中国共産党と一線を画そうとする人たちを敵視し、中国共産党が将来、路線変更して自由と民主主義の国家に変貌するなどという幻想はもはや噴飯ものの時代です。このままでは、香港やマカオと同様に台湾中央政府が中国の一地方として飲み込まれていくのではないかという気が強くしています。

 そうです。常識的に考えると、もしタイワンが中国の手に落ちれば、香港やマカオの自治的なシステムもなくなってしまいます。経済発展を遂げているように見える現在の香港やマカオは、タイワンを釣り上げるための餌なのですから、魚を釣り上げれば餌も不要になるのは当然です。

――ですから、なおのこと、政党や主義主張、政策は違っても国家安全保障というギリギリの視点に立って、その点では国民党も民主進歩党も、さらにはどのような政党でも一体化すべきだと思うのです。この視点に立てば、まさに先生のおっしやる「建国」こそ現在の台湾のキーワードです。建国なくして民主化など、あり得ません。

 政治家もタイワンの人々も誤った観念に操られているのです。李登輝総統が「台湾は中華民国ではない」と「一つの中国」を否定する発言をし、台湾新憲法制定を宣言した。これを民進党が引き継ぐことになったとき、世界は「民主的・平和的な革命」とおだてました。そのおだてに民進党も自分を忘れてしまったのです。そもそも「民主」とは、異なる団体が共同目標に対して賛成する場合に、その共同目標をみんなで検討している、その姿が民主です。ところが、中華民国とタイワンでは目標が違います。共同目標はあり得ない。だから民主という概念を持つことは、今のままでは不可能なのです。

今はグローバルな世界、グローバルな市場だと言われますが、そうした社会が成立し存続していくためには、一人ひとりが負担すべきことを負担し、みんなが社会に貢献することが前提です。そのグローバルな社会にタイワンが入っていく、そしてその一員となって貢献したくても、今日のままではそれはできない。ですから、まず建国しなければならないのです。つまり、建国はあくまで手段なのです。目的は地球人として世界の人たちとともに生きていくことです。タイワン人にはその資格があるし、意気込みもあるし、自信もある。経済も、学術分野も、スポーツも、決して他国と比べて劣ることはありません。

――そうですね。IT産業なども非常にレベルが高く、国際競争力を十分に持っています。グローバル社会の中で他国もそれをもっと活用していけるわけですから。

 重要なのは、なぜこういう国際競争力を持てるようになったのかということです。それは日本文化のおかげなのです。台湾総督府民生長官の後藤新平がタイワンの状況に合わせた経済改革とインフラ整備をやってくれたり、殖産局長の新渡戸稲造がサトウキビやサツマイモの普及をやってくれたからなんですよ。そういうことがなかったら今のタイワンは存在しません。そういう意味で、タイワンは、日本人が残していってくれた美しい文化によって育まれた世界でも類まれな文化資産を持つ国家だと言えるのです。


一般民衆も囚人も持っていた「思いやりの心」


――その新しいものを生み出していった日本文化あるいは日本精神が、台湾の建国においても核となり得ると先生は考えておられるのですね?

 はい、そう思っています。偉い人ではなく、日本の一般庶民がしっかりと日本精神を持っているから、私は日本文化を信頼できるのです。

こういう話があります。日本の本土を襲撃してきたB29の一機が、日本軍の戦闘機に撃墜されました。その瞬間に操縦士はパラシュートで脱出しましたが、落下するときに日本軍のパイロットと目が合った。パイロットはニコッと笑って敬礼し、飛び去っていった。地上に降りたアメリカ兵は捕虜となり、戦争が終わって国に送り返されましたが、その日本のパイロットの話がアメリカ軍内で広まって、アメリカ軍を感服させました。その後、この日米の二人の元兵士は連絡を取り合う仲となります。そして、日本の元パイロットが亡くなったとき、アメリカから親友が告別式にやってきた。その様子をNHKが放送していました。こういうのを大和魂とか武士道と言うのです。ガチガチの日本の軍人だったなら、おそらくパラシュートの彼を撃ったでしよう。でもそうしなかった。一人の兵士として労わった。決して軽蔑しなかった。それが思いやりの心です。

――あえて「日本精神」などと言う必要もないのですね。

 そう、平たい言葉でいいのですよ。いい言葉なのですから、「思いやり」というのは。

――獄中の囚人たちの間でも「思いやりの心」が生まれてくるものですか?

 もちろんです。牢獄の中にいても家族からの差し入れは認められていたのですが、なかには本当に貧しくて家族が何も送れない人もいます。そういう人には、他の人たちが自分に届いた物を分けてあげました。私が最初に家族に差し入れを頼んだのは喘息発作のときに使う吸引器です。最初に入った牢獄に元炭鉱夫がいて、重症な喘息持ちだったのです。見ているこちらがつらくなってくるほど発作に苦しんでいました。こういうのは「かわいそうだねえ」という同情ではありません。同理心(どうりしん)です。

――それは仏教で言う「慈悲」ですね サンスクリット語では「マイトリーカルナー」。「カルナー」とは「呻き」のことです。人間は自分の呻きの幅でしか人に優しくできません。同じ呻きの慈しみ、それを慈悲といって大乗仏教では特に大切な徳行としました。これを先生の言葉で言えば同理心となるのでしょう。先生も、われわれにはとても想像できないほど苦しまれた。だから相手の苦しみをそのまま自分の身に被せて受け止める思いやりの心が強いのですね。

 思いやりの心が土台にある。家族のような理念を持った国をつくるしかないのだと理解できないのは、知恵の問題です。日本が残していった財産を国民党が私有せずにタイワンの人たちにお返しするという気持ち、このタイワンという土地に根を下ろしてみんなで生きていきますという気持ち、それがあれば、私たちタイワンの民衆は大いに歓迎するでしよう。そういうことをできる知恵に考えが及ばないことが残念です。それは、自分を正しく認識するということができないからだと思います。「自分は何者なのか」と自問すれば、歴史的に隠すことのできない事実として「敗残兵である」と自ずと答えは出るのです。

日本社会に「思いやりの心がなくなつている」とおつしやいましたが、タイワンでもそうした傾向が強くなっています。日本文化がタイワンに花咲かせた思いやりの心というタイワン人の美しい心象を、中華民国政府は、むしろ「邪魔なもの」としてタイワン人の心から奪おうとしているのですよ。特に、われわれのような日本精神を学んだ世代が、政府に対するいちばんの抵抗勢力として邪魔者扱いを受けている。思いやりの心を根こそぎ奪うためには、私たちはいないほうがいいわけです。もう、そういう教育はタイワンの子どもたちは刷り込まれているようです。

先日も、あるおじいさんは「のろまで邪魔だ」と孫に言われ、その親、つまりおじいさんの子どもにまでも「なぜそんなに長生きするんだ」と言われたそうですよ。自分の子どもからそんなことを言われるなんて、泣くに泣けないですよ。一昨日も、沸騰している鍋の中に、わずか生後五カ月の赤ちゃんを放り込んだ親がいたとニユースで言っていましたが、それほどまでに荒んでいるのです。

――家族の絆や思いやりが、金や欲によって腐敗してしまっている状態ですね。そんな姿は、少し前の台湾や日本にはほとんど見られなかったことです。

 戦争が終わった直後、まだ日本人が帰り終わっていないころでした。タイワンから米と砂糖がどんどん大陸に持っていかれました。年に三回も米が収穫できるこのタイワンの米穀局の倉庫から米が空っぽになっていって、町の人だけじゃなくて農村の人も米が食べられなくなる米恐慌が起こりました。もし、これが大陸で起こっていたら、おそらく略奪が頻発して収拾がつかない状態になるでしょう。でもこれと同じことがタイワンで起これば一家心中です。盗むなんてことはしない。食えなくなったら死ぬ道を選ぶ。そういう心を持っていたのですよ。しかもこれはニュースになることはなかったのです。なぜかと言うと、どこにでも起こったことだから珍しくはなかったからです。


日本語が私の獄中生活を支えた


――日本も表面的には、思いやりのなくなった国ではありますが、日本人の心の奥底にはまだまだその心が生き続けていると思っています。 

ただ、それが自覚の領域に達していないということだと思います。精神文化というものは、この程度のことでは消えてなくならないものだと思います。情報革命や市場や経済のグローバル化に伴って表層的な動きが早く、外向きにのみ対応せざるを得ない状況が人々から深さやアイデンティティなどを一時的に奪っているのかもしれません。日本が欧米化しようとし、台湾は日本化しようとする。そうした拠り所のなさ、現実に対する、危うさ、あるいは主体性の欠如などが思いやりの心を希薄にさせているのではないかと思います。

 確かにそうですね。そこで、まず影響が出てくるのは言葉ではないですか、まず言葉が乱れ始めますね。いたずらに外来語を用いて、美しい言葉を古臭いものと見なしてしまう。外来語はモダンですか?私にはそうは思えません。大和言葉にこそ言葉の原点があるはずです。それをわざわざ外国語を多用するのは、いかがなものでしよう。私は「モラル」などとはあまり言いたくないですね。

――台湾人である先生からそう言われると、恥ずかしく思いますが、確かに、考える力は言葉からしか生まれてきませんね。

 学生時代に勉強した社会運動の本に、こういうことが書いてありました。「社会運動をする者は、群衆の尻尾になってはいけない」と。社会の流行がどうだからとか、大勢がどうだからとか、そういうことを社会運動のリーダーや言葉を使うメディアが考えていては群衆以下にしかなりません。

なぜ自分の国の言葉を守っていかなければならないか。その理由を明確に述べていたのは江戸時代中期の国学者・本居宣長です。中学時代の国語(日本語)の先生が教えてくださったのですが、「本当の愛国者は、正しく自国の言葉を話す」と彼は言ったそうです。

――「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と本居宣長は詠っています。本誌四月号の表紙の山桜も、日本の「義」と「徳」を象徴するものとして選んだものなんです。

 日本から桜の苗木を送ってくれる友人がいるのですが、私は、タイワン人の心にも桜の花を咲かせたいんですよ。そうすれば、日本もタイワンも同じ気持ちになれるような気がして……。  

私のいた獄中には、タイワン人と中国人を合わせて無期懲役を言い渡されていた者が百六十一人いました。結局は、〝鬼(蒋介石)〟が死んで、大赦を受けて全員が出獄することになったのですが、最長の人は三十七年間、最短の人でも十五年間、入れられていました。興味深いことに、そのうちタイワン人で精神に異常をきたした者はわずか二人、中国人は十人以上いた。この違いは何だと思いますか?これは、獄中で本が読めたおかげなんです。

新聞紙を四十枚重ねて、一枚ずつ、おかゆでつくった糊を塗り、張り合わせて圧縮しますと、厚さ一センチほどの板のように硬くなります。それで机を作って日本語の本を読んでいました。日本語の本は持ち込んでよかったので、監獄内では日本語の学習ブームが起きました。それが私たちの「精神糧食」だったのです。わずかにいた農夫や鉱夫以外は、大学教授や大学生といった知識人だったので、日本語を読める人が多かった。読めない人にも教えてあげて、みんなで勉強しました。監獄ではなくて、一種の道場のようになっていました。

そこで、私はこんな和歌を詠んだものです。
 
            上手だと褒められたわが日本語は
                      殖民たりし涙の光


子供のころ、先生に手を叩かれて泣きながら日本語を覚えました。その涙の光が今、この監獄を照らしてくれている、そういう歌です。日本語が私の獄中生活を支えてくれたのですよ。


                                   (聞き手 本誌主筆・井原甲二)

                                   初出『MOKU』 2009年6月号



もしこの文章の内容に興味を感じられて、もっと探索しようと思われるお方は
月刊誌『MOKU』に連載中の「煉獄の彼方」を、読まれることをお勧めします。
MOKU出版株式会社


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