新高山百合
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狭き門
2012-02-05 Sun 19:55
           
          「来て見れば 昔も今も 狭き門」

                                         作者 Kiyoshi先輩

年に一度、有っても無くてもいいような会合に顔を出すため、中学の母校に出向いた。

緩やかなダラダラ坂を登り、校門を通り、本館の北端を迂回して会場へ行こうとしたが、かねがね考えていた或る事を思い出し、反射的に校門の方を振り返った。しばし躊躇の後、踵を返して校門の方へ戻って行った。校門の中央に立ち、校門をしげしげとみつめた。

狭い!確かに狭い。私は門柱に背中を付け、別の門柱へと歩を移す。8.6歩、4.3m。長年の学校勤務でこれよりも狭き門を知らない。あまりの狭さにここを裏門と勘違いしている在校生が多いと聞いた。まさか若い教師達までが?再教育せねば…。

狭きこの門、過去幾多の少年達を門外に拒み、その青い志を挫いた事か。少年達は涙を呑んで恨めしげに後を見い見い、坂を下って行ったであろう。

               「罪深き 狭きこの門 今もなお」

そして今私が70年前を回顧する時、かつて門外に拒まれた少年達も、選ばれて狭き門を潜った小年達も、夫々の人生を闘い、共に84の坂を駆け上がって来た。これ等二組の少年達の人生は皆正解だったのだと感慨深い。

今思う、「人間84年、下天のうちを比ぶれば、それ夢まぼろしの如くなり(信長)」。今日、忘月忘日、また思う、「昨日かくてありけり、今日もかくてありなむ、この命なにを齷齪、明日をのみ思いわずらう(藤村)」。

開会時間までかなりの間があったので、玄関前の大蘇鉄茂る植え込みの庭石に座りて、静思回顧しばし慰む。玄関の方を見つめる。

70年前(1942)、3月忘日の玄関の喧騒と人だかりが鮮やかに眼前に彷彿した。小学から中学への入試合格発表である。その日も私は今と同じ庭石に腰掛けて目の前に映る人間模様を楽しんでいた。すでに掲示板に自分の名を確かめた後だから心にゆとりが出来ている野次馬だった。

中年の婦人と息子らしき少年が人力車で校門に着いた。車は婦人の指図か或いは車夫のマナーか、門外で車を止めて二人を下ろした。少年の手を引いて、婦人はいそいそと掲示板へ向かった。黒山の人だかりの中を婦人は少年を後に残し、腰を低くしながら前へ割り込ませてもらい、番号を探す。

間もなく動いていた頭が停まり人だかりの中から出てきた。待っていた少年に優しそうになにか言って車の方へ歩き出す。直感で「落ちた!」と思った。母と子は車に上がり坂を下りていった。

この時から少年のこの学校に「拒まれた人生」が始まった。

校門の前方遠くから少年二人、こっちへ歩いてくる。パンツにシャツ、そして裸足である。それはありふれた当時の子供たちの身なりであって、別に違和感はない。物資統制、入手困難な運動靴を長持ちさせる為、むしろ奨励されていた。実際にその頃私小学生は校内では裸足だった。裸足の足裏は運動靴以上に長持ちした。

うち一人は空き缶を下げ二人は、楽しそうなお喋りだ。日本語かもしれない。

校門まで来るには、北と南へ夫々分かれ道があったが二人は尚も真っ直ぐに校門へ向かって来る。坂を登りかけている。手に提げた空き缶の中にもう一つ小さい空き缶があるらしくカラカラと音を立てている。木の棒が一本入ってる。

やっと分かった、こいつ等コオロギ狩に来たんだ。手に提げてるのはコオロギ狩の伝統兵器だ。それにしても我が校の構内を狩場に選ぶとはいい度胸だ。

校内の狩場はただ一箇所、運動場西南端の崩れた城壁傍の草地。中三の時、級友二人で、此処で空襲に備えて一人用の青空退避壕、通称タコツボを掘っていたら、あっちこっちの穴から捕虜、貴重蛋白源がゾロゾロ這い出してきた。

濡れ手に粟の如く、追いかけ掴み、ポケットに暫く飼って帰宅後処刑する。まず、胸を強く挟み窒息させる。衣は付けないで油に入れる。注意!絶対に生きたまま煮え地獄に入れるな。必ず化けて出て来る。
サクサクの歯ごたえ、プンと鼻つく美味芳香、戦中最高のゼイタクだった。

付近に清水流れるせせらぎがあり、これが校内と校外を分ける国境だった。小川の向こうには民家の自給自足の家庭菜園があり、その関係か、この草地は虫たちの格好の生息地になった。

当時は非常時下、夜半でも警報が鳴れば規則に従い、学校警備のため登校した。その時によくこの草地に来た。清流はよく蛍を呼んだ。地上は揺れ行く魂のような蛍、天上はこの魂がたどり着いた大星夜であった。公害、光害と言う言葉の無かった古き良き遠い毎晩の宝石を散りばめた星空であった。

               「闇ほたる 上へ上へと 星になり」

「少年よ、大志を・・・」なんて時代錯誤的な台詞は言わない、BLOG、FB、NET、電子ゲーム、万能ケータイいじり…等もいいが、偶には自然からエネルギーをもらっててコオロギ狩をしようではないか。

と言っても、今町中でコオロギの穴なんて見つからない。狭い路地までが舗装されて土の地面は殆ど無い。何時も思うのだが、此れは間違つた環境美化だ。折角降ってくれた雨も地下水になれず海の中、追い討ちをかけるように養殖業の地下水使い放題、地盤は沈下する一方。地球は変貌の一途。

郊外へ行こう。水を大量に使うので水源に近い穴を探そう。棒切れを穴にソロソロ差し込んで敵の在不在を確かめる。土の感じなら空き巣。柔らかい手ごたえは敵。敵は敵でも偶に「草尾蛇」と呼ばれる無毒のヘビが素早く逃走する。空き巣占領の可愛い蛇である。殺してはいけない、殺す理由も無い、益虫だ。

水を穴へ注ぎ込む、が直ぐに土に吸われる、棒切れで知面から穴に向って差し込む、水の倹約と敵の退路を絶つ。どんどん水を注ぎ込む、そのうちに飽和して水は穴に溜まる。虫は呼吸が出来なくなってソロソロと這い上がってくる。探知器のアンテナ二本が先に出てくる。頭隠してヒゲ隠さずだ。すかさずそれをつまんで釣り上げる。これで戦果一匹だ。少年達よ味わえこの快感を。

「もっと遠くへ行け、もう悪いヤツには捉まるな」とよく諭し説教して放してやる。これが男の狩りロマンだ。今は豊饒飽食の時代だ、虫の二三匹には事欠かないだろう。触角をつまんで吹く、透明と不透明4枚の翅をヒラヒラさせて嬉しそうに青空へ消えて行く。


さて話をコオロギ二少年に戻す。二人は脇道には行かず、校門をめざしている。とうとう坂を上り校門を通り校内に入ってきた。私は興味が湧いて来た。身なりと手にした小道具で二人が受験生とは思わなかった。それが落とし穴だった。二人は掲示板へ向かった。小さいほうが道具を持ち、素手になった一人が敏捷に人だかりの中へ割り込んだ。

間もなくするりと抜け出して、掲示板を指差して頓狂な声で連れにわめいた。「あそこ、僕の名前!僕の名前!」。もちろん日本語で。連れは小躍りした。弟らしい。二人は大声でペチャクチャ、ペチャクチャお喋りながら坂を下りていった。狩は止めたらしい。

私は幸運にもこの爽やかな光景を目の当たりにし、それが同期生第一号との出会いであった。彼は狩りのついでに合格発表を冷やかしに来たのだ。無くてもともと、有れば儲けもの、棚からぼた餅だ。かく言う私も一緒だった。その後、校内文集で、名乗りを挙げてもらいたかったが、遂に分からずじまいだった。ハダシのコオロギ狩に抵抗を感じたのか?

玄関の喧騒は消え、私は回想から現に返った。70年前に見た失意落胆の人力車少年と、希望歓喜のコオロギ少年、光りと影の強烈なコントラストだったが、今84歳の坂を登りきった二人の人生は皆正解であっただろう。感慨が胸を通り過ぎる。独り私は「我が生涯は 悔いだらけ!」

「狭き門」が束の間の暖冬の朝陽に、さんさんと映えている。が土曜休校日の玄関前の植え込みは暗い静寂、ここにも光りと影の映り合いがあった。今年一月忘日、風が首筋に冷たい世の中だったが、暖冬の朝のひと時であった。

やおら腰を上げて会場へ急ぐ。      2012.1月忘日



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南十字星ロマン / 3.エピローグ 2007.12.5
2011-01-31 Mon 19:50
                                         作者 Kiyoshi先輩

旅は終った。 いったい俺は、南の果てへ何しに行くんだ、と自分にも分からんままフラフラと家を出たが、 幸いに損はしなかった、 納得いく実りある旅をしたつもりで家に帰った。

その後何処にも行っていない。 齢を重ねるにつれ、外に出るのが億劫になる。 海外ツアーは、 束縛に始まり、 解放に終る。 十数日の束縛に甘んじて居られるほど魅力のある旅があるとも思えない。 いや、 旅の魅力は否定出来ない。

要は加齢老化に伴って色んな事への意欲が失われているのだと思う。 更に、 定着した暮らしのリズム変えるのが億劫なのだとも思う。

定年後、公職から、 束縛から解かれ、自由を満喫して、テニスに、ピアノに、ダンスに、 音楽に、 物書きに、まだ残れる情熱を燃やし悠々多忙の年月を費やして十数年、 今や日々は変わらぬリズムで繰り返す。 このリズムを狂わせたくない、 という事である。

NHKの放送で知ったのだが、 最近海外旅行で問題になっているエコノミックシーツ症候群なる突発事故が話題になってる。 旅客機の一番経済的な窮屈な座席で、 姿勢を変えないで長時間座っていると、足の静脈に血栓ができる。

目的地に着いて急に立ち上がり、行動をはじめる、すると血栓が血流に載って何処(か忘れた)かへ辿り着きそこで血管を詰まらせてしまう、危険な重体になる。 そのまま死亡した例もある。

私の職場の同僚一人が、空港に降り立って倒れ、 間もなく病院へ直行した。 経済座席症候群である。 海外旅行も命がけだ。益々腰が尻が重くなる。

                                   南十字星ロマン 完。 Kiyoshi
ご精読を有難うございました。 

『南十字星ロマン / 1.プロローグ』
http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-42.html
『南十字星ロマン / 2.星を追って』
http://twnyamayuri.blog76.fc2.com/blog-entry-46.html





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南十字星ロマン / 2.星を追って
2011-01-21 Fri 13:41
                                         作者 Kiyoshi先輩

1994.11.定年退職後3ヶ月、 虚脱感の日々を数える中、友人Kから電話:「オーストラリア、ニュージーランドのツアーに行かないか?今員数が足りないのだ」。

ニュージーランドと聞いてとっさに十字星が閃き、脳裏を掠めた。 そして前後不覚にも反射的に 「いいよ」 と言ってからしまった!と思ったがもう遅い。 幸いにKは私の、腰も尻も重い事をよく知っているので本気にしない。

「おいおい、真面目に聞けよ」、「まじめだよ」と又も心にもない返事をしてしまった。「しようがないな、また電話するから考えといてくれ」とやはり本気にしていない。

私は少し慌てだした。電話中で二度もOKしてしまった。今更引っ込みがつかない。だからといって、星の為ににニュージーランドくんだりまで落ちて行くのも正気の沙汰ではない。 確実に十字星と会見出来る保証もない。雨や雲で一巻の終わりだ。

一体俺は南の果てに何しに行くのか?急いで自分でも納得出来そうな、大義名分の通りそうな理由をさがした。それは・・・・・

(1)機上から我が過ぎし日の夢、ラバウルを俯瞰する事 (2)機上からグレート バリア リーフを俯瞰する事 (3)ペンギンの出勤退勤と子育てを見る事 (4)オペラハウスのあの奇天烈な屋根の謎をを探る事 (5)そして、我がマドンナ「南十字星」に会う事。

その他の名所風景めぐりには興味はない。 そしてこのうちで上記(4)のオペラハウスだけがガイドブックにあり確かにお目見え出来そうで、その他は実現の保証はない。

こうして確たる期待も自信も無く、不本意にフラフラと家を出て、南の果てへ飛んだ。 が・・・・。思いがけぬハプニングにすっかり気を好くして帰って来た。

1.ラバウルや つわものどもが 夢の跡

1994.11月、星を追って初夏の南半球へ飛ぶ・・・・・。戦時中 「ラバウル」 と 「零戦」、この二つの言葉は同じ響きをもって、重症航空マニァの少年私を、 聞くだけでワクワクさせた。

南太平洋の数ある基地の中で、 終戦まで固守し、敵に渡さなかったのが、ラバウル基地であり、 米軍はこれをラバウル要塞と呼んだ。

基地の護りを担ったのが、 台南空(台南航空隊)から転進した、戦闘機零戦と大空のサムライ達、 零戦のベテラン パイロット達であった。 彼らの活躍を称えて二つの戦時歌謡が超ヒットした。

「銀翼連ねて南の前線・・・・・」 と 「さらばラバウルよ・・・・しばし別れの涙が滲む・・・・・椰子の葉陰に十字星」 で始まる名歌謡。 名せりふと軽快なメロディーがリズミカルにドッキングし、 誰しもが一発で覚えてしまい、 大流行した。 貴方も一度ならず何度も歌ったでしょう。ラバウルは私の少年青春の日のロマンであり、 私を南へと駆り立てた青春の歌だった。
     
     

地図で桃園空港とブリズベーン空港を結ぶ直線上にラバウルが在る事を確認した。 飛行機は必ずラバウル上空を飛ぶ事を確信し、その時を待った。

が視野に映ったのは果てしなく続く「緑の砂漠」こと熱帯雨林であった。 地図で覚えておいた島の形など何処にも無かった。 それで始めて自分のアホーに気がつき呆れはてた。 1万mそこそこの高度で台湾よりやや長い島の全貌が見れるわけがないのだ。 期待でワクワクして常識が麻痺していた。 実に脳天気のノンIQのオレだった。

だが我が身は確かにラバウル上空を飛んだのだ。それでいい。もう来る事も無いだろう。ラバウルや 永遠なれ。 1994.11.15。

2.輝くグレート バリア リーフ(大堡礁)の海

今この地球で、 生き物が造った最大の構築物は、長さ2000km、幅200km、 厚さ200m、 台湾島が六つもスッポリ入る巨大珊瑚礁で、 これがオーストラリアの北寄りの東海岸の浅い海にデンと構えている。 これが大堡礁、グレートバリアリーフである。

1800万年前、 一群の数センチの小さい虫、 珊瑚虫(身体は円筒状、底部で海底に固着し、円筒口辺の触手でプランクトンを捕食)がこの浅い海に定着し、 彼らにも、 人類にとっても重要な営みを始めた。

即ち大気中から海に溶け込んだ炭酸ガスと、 河川から海中に運ばれたカルシュームから炭酸カルシュームを合成し、これが 彼ら群体を固着させるための共同骨格となった。 即ちあの硬い石灰質の珊瑚礁である。

1800万年の時を経て、 今の巨大珊瑚礁に成長した。 グレートバリアリーフは国民に愛され保護され、 今でも年に数ミリ成長している。

珊瑚虫は大気中からCO₂を取り去りそれを珊瑚礁に変えたのだ。地球環境の大変貌に寄与したのであった。

NHK TV が 「これがグレートバリアリーフだ」 という4時間のドキュメント番組を制作した。 その中で、 ヘリからの俯瞰で、オーストラリアの東海岸の北半分を鮮やかなエメラルド色で彩った珊瑚礁の海と、 外海のコバルト色の太平洋の海とのコントラストが鮮明で印象的であった。

これぞオーストラリアの自然だ、 我が目で見たいと強い憧れを持った、 そしてこの願いは十字星のように50年を待たずに数年で実現した。 夢は持つものだ、 強い願望は夢を実現させる。待てば海路の日和だ。

機はラバウルを後にして間もなく豪州大陸を眼下に見た。すかさず左方、東海岸の方向を注視する。 真上を飛んでる訳ではないので、 海は遥かの向うだ。 それでも黄緑色のひとすじが海岸線を彩っているのが見えた。グレートバリアリーフの海である。

其の外は紺碧の太平洋大海原。 飛行機がこのグレート・・・・を飛びきるのに2時間もかかった。 今更ながら、 小さい虫の大きい仕事に驚嘆する。

ツアーのメンバーはと見ると、 6時間のフライトで疲れて無言で天井を睨んでいる。オーストラリアまで来てグレートバリアリーフを無視して見過ごすとは惜しい。 

さらば輝かしいグレートバリアリーフの海よ。永遠なれ! 2時間後オーストラリアの玄関空港、桃園空港よりも見栄えのしないブリズベーン空港に降り立った。 1994.11.15

3.NZは地質学の生き標本 / フィヨルド、氷河、U字谷

国を出て1万キロ余、 今1944.11.18、 私はニュージーランドの南の最果ての地に立っている。 殆ど地球の底辺にへばりついている。此処から南にはもう島も、陸地も、国もない。 あるのは南極大陸だけだ。

随分遠くへ来たもんだ。 突然、老人の心配性か、 帰れなかったらどうしようという起こりそうもない杞憂が脳裏を掠めて苦笑する。 そして此処で思いがけなくも、予期しなかった物を観て大感激。 ああ来てよかった。

此処は、 山間の谷へ海水が入り込んで出来た深く長い入り江で、 その周囲は平地ではなく、 相い連なる山々で、私の居る場所は、 観光のために開発された狭い平地で、ヨットや遊艇の波止場になっていた。 私は眼前に広がるパノラマを焦点もなしにただボーッと眺めていた。

頂に雪をかぶった遠くの連峰、 人を威圧する近くの山々、 そして視線が山と山の間の横に異常に幅広い谷に行き着いた時、 このパノラマを写真で見たことがある事に気がついた。 「次の瞬間私は強い驚きの叫びを呑みこんだ」。

「U字谷だ!U字谷ではないか!」と。 しかも雄大で典型的な代物だ。 これで自分が雄大なフィヨルドの中に身を置いてている事に気が付いた。

写真や説明をいくら閲読しても実態がつかめなかったフィヨルドやU字谷をまのあたりにして、目から鱗だ。誠に百読、百閲、百聞、一見に如かずだった。

惜しむらくは、観光が主要産業であるニュージーランド当局が、 こんな上等なお宝観光資源を観光客にアピールしようとしない。付近一帯を歩いたが、この地質地形の成因を案内する一本の立て札もない。観光客は沢山来ているが、何の知識も案内されずにただ漠然と「山水」を見て帰るだけである。宝の持ち腐れである。

今、眼前に見えているU字谷から上流へ視線を移せば、最後は山頂に達する。今、平地は夏だが山頂は尚も雪化粧である。山の青さに白く映えて美しい。つまり其処では万年雪が降り、夏でも融けない。降り積もる雪は、次第に厚さを増し、下層の雪を圧縮する。そして雪から氷へと変身する。硬く青白い氷は徐々に厚さを増し、厚さが数十mから数百mに達すると、自身の重みで斜面を下降し始める。氷河誕生である。

氷河は膨大なエネルギーを保存して、驚異的な破壊力、侵食力、搬送力を発揮する。それはまるで巨大な削岩機が河を下るようだ。谷床と山壁の岩盤は、削られ、剥ぎ取られ、大小様々な稜角の尖った岩石に砕かれ、それが又ヤスリの様に作用して侵食を助成する。

氷河自身は固体であり、氷床や側壁との大きな摩擦のため、其の下降速度は、恐ろしくスローモーションで、 生きているのか死んでいるのか分からない、平均1日50センチの目に見えない動きだが、着実に時を刻み、岩を砕きながら斜面をくだっている。そして数十年かけて、やっとこさ麓にたどり着く。

こうして、氷河の通った谷は、長い時間をかけて侵食され、谷幅の広いお碗の断面の様なU字谷が出来上がる。氷河の無い地方(台湾など)の山谷は河水のみによる侵食ではU字谷は出来る筈はなく、皆V字谷であり、河原に転がっている石は皆玉石(鵞卵石)である。若し貴方がここ台湾でU字谷を見つけたら大変な事になる。

そしてもう一つ予期しなかった物を見た。氷河は自分が壊し砕いた、大小様々な尖った岩石(丸い玉石は出来ない)を、数十年かけて下流へ搬送する。氷が融けて麓の河原に忽然と現れるのは、置き去りにされたぶざまな石達が演出する、殺伐荒涼たる景観だ。こんな荒石の野原を氷磧と言う。

此処へ来る時はまさか此処でU字谷を見るとは思わなかったから、バス窓外の景色には注意を払わなかったが、U字谷があるからには、付近に氷磧があることを確信した。

そしてこの予想はすぐ的中した。帰りのバスが出発すると間もなく、窓外に石の野原が見え出した。不思議なことに、草も生えない。それが益々景観に殺伐さを加えた。独り私だけがこの殺風景に感激していた。1994.11.18、今日は良い物を見た。

4.私の掌に舞い降りるスズメ、驚異のNZの大自然。

1994.11.21、私はタウポ市の公園のベンチで酪農産業国のミルク濃密な美味いアイスクリームをほほばっていた。頭上で台湾の雀に似た鳴き声がした。見るとやはり雀で、尾羽が台湾すずめより一寸長いだけだ。私のアイスクリームを見てひっきりなしに鳴く。ねだっているのだ。可愛いじゃないか。

生き物、生態、環境保護、等ひっくるめて自然保護のやかましい国だ。私はこの国の「自然」が「自然」たる所以を、その「自然指数」を雀を借りて測定しようと思った。

私は食べ残しのアイスクリームを皿ごと掌に載せ、ベンチを離れ、 木の下へ行き、しゃがんで腕を伸ばした。 すると、どうだ、 奇蹟のハプニングが私を驚かした。

待っていたかのように、一羽のスズメが舞い降りて皿に停まりクリームをつつき始めたのだ。私は涙が出るほど嬉しかった。心が通じた事に。私は彼女の敵ではなかったのだ。私は雀が愛しくて、その頭を撫でようとの衝動に駆られたが、実際は少しの身動きも出来なかった。

私はそのままの姿勢で雀を驚かさない様に、「誰かシャッターを頼む!」と叫んだ。そしてこのシーンは無事フィルムに収まった。 私はてのひらにニュージーランドの「自然」を感じた。

同じツアーの姐ちゃん一人、も私の真似をしてこのイベントに加わった。又も一羽、彼女のアイスクリームをつつきに舞い降りた。

このまま行けば、 更に多くのメンバーが加わって其処には、地球ファミリー交流の輪が生まれ、微笑ましい一幅の絵となる筈であった。 が一人のバカ男のバカ小細工でパァーになった。

私たち二人の雀との交流に誘われて、バカ男がアイスクリームを直接掌の上に流し込んだ。浅ましい下心見え見えだ。不吉な予感がし、それが的中した。

舞い降りた雀にしばらくつつかせて、男は雀を鷲摑みにしょうと急に掌をすぼめた。バカが故に、反応は雀の方が一枚上手で、魔手から逃れた。

処が逃れた雀は3羽だけではなかった。こんなにも樹上に居たのかと、百数十羽の雀が、同タイミングで一斉に飛び去った。見事なチームワークだ。

直ちに情報が雀達の間に交わされた。「台湾人を警戒せよ、我々の天敵である」と。ここら一帯の雀たちは台湾人不信に陥った。何という事をしてくれたか、台湾人!

私は憤激に耐えない。男は図体は大人だが、脳は、動く物なら捕らえる本能の幼稚園園児並みだ。見た所インテリ-だが、 こんな事をする、しないは、インテリー度とは無関係の様だ。 これはDNAの問題だ。 遺伝子組み替え以外に付ける薬はない。精神幼稚症だ。

このバカはこれから行く先々の観光地で発症するだろうと思っていた二日後、 次の観光地、メルボルンの南のフィリップ小島で又も発症した。

翌日、バスがフィリップ島への渡し場に到着しない前から2キロ前方の島の上空は既にギンカモメの乱舞で見事だった。
ドウロ
カモメ達は 「オイ!又もカモが来たぞ」 と互いに交信していた。 売店でパン屑を買って島に渡る。パン屑を持って手を挙げると、鴎は直ぐ頭や腕に止まりパン屑をつつく。 糞を頭にひっかけりゃしないかとヒヤヒヤだ。

例の男は頭上に止まった鴎を今度は難無く捕らえた。ギャーギャー鳴くかもめは放たれ、男の顔には成功感の卑屈な笑み。 バカにつける薬はない。 動物を見たら捕まえろ、 中国人なら「捕らえて喰え」だ。 あのバカ、シナ人かもしれない。

5.十字星 きらめく光 誰がためぞ

1994.11.21夜、 人家のない夜道をバスが走る。 ヘッドライトに照らされた白い道の外は、暗闇で何も見えない。道路照明が無い。 その分星空がきれいだ。 車窓のガラス越に限られた視界で星見する。

視野に、並んだ星が二つ飛び込んできた。 とても明るい。一等星以上だ。 バスのカーブや進行につれて見え隠れする。 いっ時消えていた二つ星が、 バスがどんなカーブをしたのか、 更に同じ光度の第3の星を伴って一緒に再び視野に現れた。

この時、私は或る事に思い当たり、 胸騒ぎを覚えた。 もう一つ、 もうひとつあまり光らない第四星が隠れて居るのではないか? 期待と緊張で膝が貧乏揺すりを始めた。 

恐れと期待は的中した。 出た!!、 南十字星、 サザンクロスだ。 四つの星が十字を組んでいる。 あゝ彼女が見え隠れに私を招いている。 あの夜 確かに私は彼女、十字星を追っていたのだ。

バスは間もなくロトアル市に着いた。 原住民マオリ族の民俗舞を見て此処に宿泊の予定である。 十字星が気がかりで私は 退屈な演目から抜け出し、 広い庭園に出る。 星は直ぐ見つかった。 私を待っていたようだ。 仰角70度位、 殆ど頭の上だ。 煌々と輝いている。

台湾では姿を見せない彼女は今誇らしげにキラキラ煌めいている。 四つ星は各々が燃焼し、光と熱を地球に届けようとしている。しかし熱は届かない。星の光とは思えない輝かしいその神秘の光を満身に浴びて私は期待する、体中に何かの変化が起きようぞと。星光浴である。

今、 私はキー打つ手を休め、 13年前のあの感激を反芻している。 思えば60数年前、 軍歌からその名を知り、 生涯見るあたわずと教えられた星、 あきらめた星、今その光のシャワーを燦々と浴びながら感無量であった。

夢は見るもの、 強い願いはその実現を助成する。ミスティックな星の下、 ロマンは宇宙の彼方へ翔ぶ。

「翔び行け! わが想い、 金色の翼に乗って・・・・」。 古代この詩を合唱したヘブライの捕囚達も遥か南の地平線の十字星に想いを寄せて故郷を偲んで歌ったであろう。(この合唱曲はヴェルディーのオペラ「ナブッコ」中のPensiero。私の好きで好きでたまらない合唱曲である。ある若者が私に言った、この曲を聴いてると自然に 気ヲツケ!の姿勢を取る、と。
     

南十字星座は全天88星座の中最小星座だが、私を、人々を、魅了して止まない。
四つの星は、地上から見れば同一平面上にある様に見える。が 実際は地球からの距離はまちまちだだ。

宇宙はこの4すじの光が地球人の網膜に投影されて十字形になるよう星を配置した。 つまり宇宙広しと言えどもこれ等の星を十字形に見るのは地球人だけだ。 別の星(と言っても網膜を持つ生物のいる星は一つも知られてはいないが・・・)から見た四つ星は不規則に分散した星にすぎない筈だ。

十字星を配置した宇宙の思惑は何だったのだろう? 事もあろうに人類はこの十字星にヒントを得て、 十字架なる刑具を考案し、これまた事もあろうに、 この刑具で宇宙の神の子かも知れない一人のスーパースターをハリツケにした。 彼は人類の罪の深さを背負って刑を甘受した。誠に神性の力を見る。

四つ星の縦軸は南に傾斜していた。連想は昔見た映画のシーンへ飛んだ。頭ほどの太さも有る削り立ての木の十字架を一人の男が肩に担いで濡れた石畳の坂を注意深く登っている。

何度か滑り、膝と肩は血が滲んでいる。よく見るとその男に苦痛の様子は見られない。あの時男はすでに彼の神の世界へ踏み入っていたのだ。神を見たのだ。彼はこの十字架を小高いゴルゴタの丘まで担がねばならない。彼はそこでハリツケにされるのだった。そして全人類の罪業を背負って昇天した。億単位の人類が彼を受けいれた。

天下のクリスチャンよ、 ニュージーランドへ行け。 そして十字星を仰げ、 そして一人の男の受難に心を致せ。 そして十字の星に向かってクリスチャンとして何をすべきか、すべきでないか、星に聞こう。

6.森に住むペンギンの日課 / 出勤と帰宅

NHK TV 「地球ファミリー」 でオーストラリアの自然を、ペンギンの決死懸命の暮らしぶりで紹介していた。 感動の45分後、 見たいなあと強く願ったら、 今1994.11.24現地で実現した。 願えば報われる。 夢を持て!

前述のフィリップ島へ再びやって来た。 この島ではパンかじりのギンカモメは空に乱舞し、 アヒル位のフェアリ(妖精)ペンギンは森に暮らす、 生涯氷とは関係を持たない。

森と言っても平地ではなく、 なだらかな丘の上の林だ。 地面や草叢に穴を掘って親子の巣とする。 蛇や鼠等の天敵にはどう対処するのかとペンギンの為に心配する。 この林には数百羽位生息している。

朝、日出前、 暗いうちに日課が始まる。 親鳥総出で仕事場(海)へ出勤。 巣には雛だけだ。 又も蛇鼠が気に懸かる。 先ず、 丘を降りる。 いや転げ落ちるのだ。 ようやく浜の岩場に着いた。 と思ったら、 此処でも7転8倒、浜に到着。 擦り傷、で出血だらけだ。 これで潮水に浸かったら拷問だ。

休憩するか? 冗談じゃない、雛を餓死させる気か? 傷の痛みも何のその、 皆勇敢に海に跳びこむ。 海中を飛ぶように泳ぎながら、 小魚やホタルイカを胃にいっぱい詰める。 終日12H作業である。

各国人種を乗せたバス40台が続々と島に着いた。 各国の観光客1500人がゾロゾロ降りて来る。ペンギンの浜へのご帰還と我が巣へのご帰宅を見に来たのだ。

波打ち際から約200メートルの砂浜に座って待つ。 まるで世界人種ショーだ。 前方から観衆のざわめきが伝わってきた。 浜に黒い点々が押し上げられてた。 親鳥達のご帰還である。 「大声禁止」 「フラッシュ禁止」 と職員達は忙しい。

十数羽1グループでリーダーにについてヨチヨチと帰途を急ぐ。 長時間の重労働に加えて身重で、足取りは鈍い。 巣までの道のりは段差だらけに岩だらけ。 転び、躓き、擦り傷だらけ、なりふり構わず只一心不乱に歩き歩く。 感動の光景だ。

巣では雛が餓死寸前である。 一日一食の給食時間に遅れると雛は力尽きて息を断つ。 自分の巣を間違えた親鳥は悲惨だ。あちこちの巣から突付かれ追い出され、オロオロしてるうちに親も子も共たおれ。

胃の内容を吐き出して給食を終えると、 どっといっぺんに疲労が襲い、 死んだ様に深い眠りへ。 どんな夢を見るのだろう。

「あたし、何が楽しくて毎日こう辛いのでしょう。 あたし前世で何か悪い事をした? 来世は、あたしたちを無遠慮でジロジロ見ている人間様になりたいわ」。
今日は良いものを看た。

     

7.シドニーよ 見かけたおしの オペラハゥス

シドニー。世界の都、美しい街、オペラファンの夢のオペラハウス。その奇妙キテレツな屋根は何なのか、その下に何を秘めているのか、 と期待と好奇心で入口に立った。

あの西瓜二つ切りの、人の連想憶測を誘う型破りな屋根を仰ぎ見る。 バカでかい。 工事費が天井知らずに膨らんだのも無理ない。 館内に入った。 すぐにポスターや写真が貼られている長い廊下に案内された。 私の目的がこれだった。

ポスターや写真をくまなく検閲する。 そして分かったことは、 世界の名だたるオペラシンガーは誰も此処を訪れていないのだ。 勿論三大テノールもだ。

最も不可解なのは、目と鼻の先の、隣国ニュージーランドの歌姫、キリ テ カナワもこの歌劇場の客ではなかった様だ。

今や世界の最高ソプラノの一人である彼女に、元来二物を与えずの神が、 三物「美声、美貌、気品」を与えてしまった。 柔らかく艶々した彼女のアリアは耳に優しく音のエンジョイであった。多くのソプラノ歌手のソプラノは聴神経を逆撫でする。 悲鳴でしかない。

挙手投足の間に見られる気品は、今は亡きグレイスケリーのエレガンスを思い出させる。 このエレガントな気品は彼女の美貌をいっそう引き立てる。 原住民マオリ海洋民族の血を引く彼女の容貌は時にチラリと野性的情熱の影を見せる。

50歳の祝賀会(米国で)で彼女の打ったウィットに富んだスピーチは満場の喝采を博した。そして結尾の 「ニンゲン50歳、 最高!」のガッツポーズはキリの野性的な一面を見せて観衆は大喜び、 「キリーキリー」の呼び声は館内を揺るがした。

エンディングは彼女の同胞と「Now is the hour.」 を合唱した。 そしてこのセンチメンタルワルツは私のワルツレッスンの常用曲となった。

コンサートホールへ案内された。 台北のより見栄えがしない。 目だって観るものもなく、そそくさと外へ出た。もう一度あの奇天烈な屋根を仰ぐ。 私なりの結論は、 この屋根、演奏や音響とは関係ない様だ。 只のデコレーションにすぎない。 貴くついて用をなさなかった。

プロの建築家に見せたら、 一応 「おゝ、斬新なデザイン!」とお追従を言い、腹の中は 「アホくさ!」 だろう。 奇妙奇天烈な絵だからこそピカソであり、 奇妙な屋根だからこそ、天才建築屋なのかもしれない。

シドニーのランドマークは世界楽壇オペララ界から置き去りにされた様だ。 ガイドブック等で盛んにPRしてオペラファンの夢を掻き立てたが、開けて見れば玉手箱だった。

「海のあなたの空遠く、オペラハウスに夢住むと人の言う、あゝ我れ人と尋めゆきて、涙も出でず帰りきぬ」。1994.11.26

8.コンソレーション 真夏の夜の まぼろしか

夕闇迫る頃1994.11.26、シドニーシェラトンホテルにチェックインする、 一応五つ星である。 夜9時ともなれば部屋を出る客もいない。 が毎晩12時、1時と夜更かし常習屋の私にはそれは出来ない相談だ。

ホテル中をさ迷っていたら、2回のバルコニー風のロビーに蓋を開けたままのグランドピアノに出会った。

大げさに、それは「運命の出会い」であった。 蓋を開けたままというのも運命的だった。 誘うのだ。 ピアノ重症マニアを。 バルコニーの端から一階を見渡す。 客が一人だけ、バーでバーテン相手に独り酒を楽しんでいる。 弾こう、弾くことにした。 静かで短い曲、と頭の中で選んで、 リストのコンソレーションNo.3を指定した。

良いピアノだった。 キータッチングがスムースで、良く指になじんだ。 弱音ペダルを踏みっぱなしで「慰め」を 弾き終えた。

待っていたかのように階下から拍手が起こった。 ビックリして、 ピアノの位置から一階を見たが、 先刻の男がバーに居るだけである。 拍手はまだ続いてる、 黙殺する訳には行かない。 バルコニーの欄干へ行った。

其処に立っていたのは、 白い夜会服を纏った西洋の老貴婦人であった。 今晩階下で夜会でもあったのだろうか。 突然のハプニングに田舎っ平の私になにができよう。 反射的にピョコン頭を下げて其処を離れて逃げるように部屋へ帰った。

顔がまだ火照っていた。 そして真夏の夜の勝手な夢を追っていた。

私は片手を胸にレディに会釈する。 請われるままに次の曲「舞踏への勧誘」を弾く。 時空はタイムスリップしてサロン文化華やかなりし19世紀半ばのフランス、 今宵もサロンでは貴婦人や名士達が演奏を待っている。

リストは「慰めNO.3」を、ショパンは「エチュ-ド木枯らし」を弾く。 そして私もそのムードに酔ってっていた。 夏の夜もすがら悦に入ってまんじりともしなかった。 
                                       2.星を追って 完。 続く



『南十字星ロマン / 1.プロローグ』はこちらでご覧いただけます。
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南十字星ロマン / 1.プロローグ
2010-12-17 Fri 19:00
                                         作者 Kiyoshi先輩

1940(昭15)夏。「ミナミジュウジセイ」という言葉を初めて聞いた。
それは小五の年の或る未明、 我家の前を全幅重武装で行進する関東軍と思しき精悍な兵士達の口からであった。

時正に太平洋戦争の前年で、小五の僕のあずかり知らない所で、風雲急を告げていたのかも知らないが、 町も学校も泰平の世であった。

台湾台南市西門町の大舞台映画館の北側の商店街に僕の家が在り、町の喧騒が好きだった僕は、道路に面した二階の窓ぎわを自分の生活の場としていた。

夏休みのある早朝未明、 町は未だ深い眠りの中にあった。私は夢うつつに遥かなる大勢の男達の、重みのあるバスの利いた歌声を聴いていた。歌声は私を眠りに誘い、 又うつつに戻しながら、近づいてくる。

そのうちに歌声とは別の、リズミカルな音声が加わり、 歌声はそのリズムにリードされながらますます近ずいて来る。私はまどろみから我に返り目を覚ました。

大勢の男達が靴音に合せて歌っているのだと分かった。歌声は家の南側のロータリーの方角からだ。窓の欄干から体を乗り出してその方角を見つめるも、闇の中に人影は見えない。が歌声はハッキリ届いて来る。 「タイヘイヨウ」とか「ソラ」とかが。

夜間はもともと騒音が少ない上に、 音波は昼間とは反対に、 地面に向って屈折するので、エネルギーを保存しながら、 遠くまでハッキリ伝わる。

かつて、駅から6キロ余りも離れた、夜の「安平」で台南駅の汽車の汽笛と、 蒸気の噴出音を間近に聴いて、 汽車が勝手に駅を離れて安平に猪突猛進して来たのかと錯覚してびっくりした。

その頃、台南安平間には、台車と呼ばれる、 魚温に沿って敷かれた狭いレールの上を、 手押しで走るトロッコが通っていた。 人夫が手押しで10mも走れば惰性で50mくらいは走った。 おんぼろバス、運河を走るポンポン船と並んでこれは第三の交通手段であった。

黄昏どきともなれば、ジャンクが褐色の帆を揚げて運河を下っていった。 赤い夕陽が帆の影に、見え隠れについて行った。 古き良き、 府城(台南別名)安平の、 のどかな風物詩であった。  「たそがれて  揺れるジャンクの  夢の影」。

こうして歌う忍者群の姿は見えなくても、 歌声は刻々と迫って来る。 そのうちに、 ロータリーを迂回する歌声の正体が、 闇の中に薄黒く幻の様にその輪郭を、 浮かび上がらせた。 

それは一匹の長い黒い龍にも似た縦隊で、龍の背中全体にたてがみの様に歩調に合せて波打っている棒状の突起物はそれが銃であることが難なく分かった。

竜の頭が「大舞台」の手前にたどり着いた頃にはやっとこの縦隊の全貌がハッキリした。 全幅重武装の、兵士と軍歌と軍靴の、オンパレードだ。 しかも聞き慣れない短調の、元気と哀愁が同居したような軍謡を伴奏に。こりゃみ物だ、聴き物だ。僕はすっかり目が覚め、そして待った。

半袖のカーキーの南方シャツの上に沢山の装備を背負い、 戦闘帽の縁全体にカーキーの日除けの布が肩まで垂れ下がり、これは紛れもなく、 南方作戦軍装だ。 一体、南の何処で何が起こっているのか、小学生の私が知る由もなかったが、 平和な町にも緊迫した空気が漂い始めるのを感じた。

戦闘帽のつばの下には赤黒い剽悍な面構えが覗く。 台湾の護り、精鋭鋼鉄の軍団だ。 軍靴は重々しアスファルトを踏みつけ、そのザクザクしたリズムに合わせて、数年後知った曲名の 「台湾(派遣)軍の歌」 が歌われた。 そして今度ははっきりと「ミナミジュウジセイ」を聞き取った。

    

「ミナミジュウジ」 は「南十時」か「南十字」だろう。 所が「セイ」は何者か、或いは何物ぞ、 どんな漢字を当てるのか分らなかった。 先に聞き取った 「タイヘイヨウノソラトオク」からは、赤道直下、輝く太陽に映える青い太平洋ばかりが連想されて、とても「セイ」 を夜の物とは判読出来なかった。 今思うと、何とまあオレは鈍感な、と呆れる。

軍団は西門町の端から東に折れて明治町に入る。 目指すは駅か、 第四部隊(現成功大学)か。 この兵団は何処の戦線へ送られ、 幾人生還するのだろうか。 後日 「台湾軍の歌」 を聞く度に彼らの事を思い浮かべる。 意気軒昂と唄われながらも、短調の哀感にじむこのメロディーに兵の宿命を訴えて、一抹のセンチメンタリティーを拭えなかった。 

あれから37年後(1977)、東京の中華レストランで夕食をとっていたら、 突如、隣の部屋から男達の 「台湾軍の歌」 の斉唱が響いてきた。 あゝ、この人達は、もしかしてあのときの・・・と懐かしさがこみ上げてきた。 よくぞ生きて帰って来ました、 お疲れ様でした、と彼等の今在るを喜んだ。 同じツアーのメンバーは誰もこの歌を知らない。 独り私が懐旧の喜びを味わっていた。

「ミナミジュウジセイ」が何物か知らぬまま、 翌年は太平洋戦争開戦、次年は晴れて二中生に昇格、 緊迫する時局と学業に追われて、ミナミジュウジセイの事はあっさり忘れ去った頃、 巷の流行歌を戦時色一色に塗り替えた軍国歌謡の中に 「南十字セイ」があちこちに復活していた。 例えば:

「台湾軍の歌」から「太平洋の空遠く輝く南十字星・・・・」
「ラバウル小唄」から「椰子の葉陰に十字星・・・・」
「轟沈」から「昇る朝日に十字の星に・・・・」
「戦友の遺骨を抱いて」から「友よ見てくれあの凪いだマラッカ海の十字星、夜を日に次いだ進撃に君と眺めたあの星よ・・・・」等であった。

    
    
    

いくら鈍感な僕でも、 「セイ」の歌が多ければ、セイの正体が分ってくる。 セイは実は星座だったのだ。 情報乏しい時局がら、知りえたデータはと言えば、 南十字星は南半球の星座、 十字だから星数は最小4つだろう、 南太平洋に散らばる戦場の兵士たちが夜毎眺める星、台湾からは見れない星、 位のものだった。

幼少から夜空の宝石は、 神秘とロマンの幻だった。そして有りながら見れない星はいっそう見たくなる。 彼女、十字の星は、神秘のヴェールに包まれて私を誘惑魅惑しだした。 「見たい!」 という強い憧れを持ち始めるも、非常時局下、一人の中学生ののんきな願望が叶う筈もない。 そして・・・・・

そして、50年後(1994)の或る夜、 私は国から南へ一万キロ余、最果ての南の地で、 頭上にミスティックにきらめき輝く十字の星を、感無量の想いで凝視していた。 眼中に温いものを流して・・・。「我が君よ 待つて暮らして 五十年」
               
                                     1.プロローグ 完。続く。




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勇気ある質問
2010-10-18 Mon 13:07
                                        作者 Kiyoshi先輩
「勇気ある質問」前書き
               
「勇気ある質問」の作者、秦一則先生は、戦前、私の中学母校の日本人国語教師で、私は不運にも、先生の授業を楽しむ機会には恵まれなかったが、先輩達からはいろいろ先生の、人と授業、の面しろ楽しさ、を沢山聞いて来た。

Ⅱ戦と共に歩んだ、中学生活と日本語、への郷愁止み難く、有志一同で始めた日本文の校友雑誌「竹園慕情」は好評の内に、10刊まで漕ぎ着けたが、編集者諸兄は、寄せ来る年波と老化には勝てず、刀折れ矢尽きて、惜しまれて廃刊の幕を下ろした。

この文集に、日本から先生の寄稿文が届いた。「勇気ある質問」である。言論統制の戦時下、先生の授業中、一生徒の発した、勇気ある、然し爆弾を抱えた様な危険な質問に対するに、先生はこれも、冷静、そして勇気ある、対処をした事件である。おかげで、結果は事なきを得た。

骨ある一台湾人生徒と、骨ある一日本人教師の、真理追究をめぐる、火花散る問答、「勇気ある質問」は我々の文集「竹園慕情」創刊号の第一頁を飾った。

今や亡き先生のご同意を頂く術もありませんが、嘗ての教え子の一人として、又この文集の編集部の一メンバーとして、先生のお許しが出た事を確信し、茲に謹んで貴ブログへの転載をお願いし、併せて読者皆様のご一読を仰ぐ所存でございます。忌憚なきご講評を頂ければ、幸甚の至りに存じます。



勇気ある質問                               秦 一則


Formosa(美麗島)と呼ばれる、日本の植民地だった島(現在の台湾)に、私は生まれて育った。そしてそこの大学(台北帝国大学)を出て、旧制の中学校の国語の教師になった。

思えば台湾は今でも私の故郷である。私の、皮膚にも目にも鼻にも口にも、台湾の風土はなじみすぎるほどなじんだ。幼い頃には、家庭内の会話でも、時として台湾語を操って母を驚かせた。私にとって外国とは、とても思えない。

しかし、私が台湾に心を惹かれるのは、そんな情緒的なものの、ためのみではない。私の長い教師生活の、最初の貴重な四年間を過ごした、悔恨や苦悩につながる忘れ得ない土地なのだ。

台湾人が全校生徒の九割以上を占めるという台南第二中学校(現在の台南一中)、その特殊性には驚かなったけれど、そこで私は大きな経験をした。

それは、一言で言えば、どんな形にせよ、一つの民族が他の民族を支配してはならない、またそれは不可能だということである。

その当時の台湾人に対する、日本人の気違いじみた同化政策が、どんなに人間の自然を損ねたか、それをいやと言う程見て来た私は、日本人であることが厭になることさえあった。だから校内では台湾語を使うことは厳禁されていた。それを犯せば、退学させられたのである。

だから、校庭のあちこちで談笑している生徒達は、私が仲間に入ろうとして近づくと、ぴたりと話をやめた。そんな時のいいようのない白々しい空気は、どんなに辛く私の心に突き刺さったことだろう。

一つの民族から其の言語を奪う、それが大きな悪であり反自然であることを、私は痛烈な実感として思い知らされた。

こんなこともあった。日本が太平洋戦争の緒戦の勝利に酔っていた或る日、校庭での朝礼で、校長がこんな訓示をした。大陸で戦っている勇敢な日本兵の一人が、敵のトーチカを奪取するために、機関銃が火を吹き止まぬ銃眼に片腕を突っ込んで沈黙させたという、当時の新聞の報道を伝えて話をした後で、

「どうだ、お前たちもこんな勇ましい行為ができるか、出来ると思う者は手をあげよ」

と言った。すると全校800人の生徒が、一斉に一人残らず手を挙げたではないか。その日の第一限目、私はいきなりそのクラスの生徒に問うた。

「もう一度尋ねる、銃眼に腕を突っ込めると本当に思う者は手を挙げよ」

私のけんまくに、恐れをなしたのか、誰一人手を挙げなかった。

「なぜ嘘をつくのか」と私はたたみかけて問うた。誰も答えない。私は「この嘘つきめ」と生徒を罵りながら、どうしようもない悲しみに沈んでいった。

私の叱責が的外れであるのはわかっていたのだ。あの朝礼の雰囲気の中で、台湾人である生徒たちが手を挙げなかったらどんなことになるか、手を挙げること、嘘をつくことが、止むを得ない自衛手段であることは、若いわたしには本当によくわかっていたのだ。だから、私は腹が立った。彼らに嘘を強いる大きな力が憎かったのだ。

しかしその後で、鮮やかな三段論法で、教壇上に私を窮死せしめた生徒がいたのである。

「先生、盛者必滅、栄枯盛衰は、世の習いと言う平家物語の一節は真理ですか」と彼はまじめに問うた。私は「然り」と答えた。彼はつづいて、「真理に例外がありますか」と問うた。私はためらうことなく、「ない」と答えた。すると、またもや問うた。「では、日本も滅びる時がありますか」

・・・・ああ、あの時の困惑と狼狽を、半世紀以上経った今でも、ありありと思い浮かべることができる。あの時ほど自分がくだらなく小さな人間であることを思い知らされたことはなかった。

生徒たちの朝礼での、心にもない挙手に怒った私が、心にもない沈黙で答えなければならなかったのだ。

しかもなお、そこには質問者の意地悪さはなく、全く透明なロジックの見事さだけが光ったいた。そのことを、今ではすがすがしく思い出すことができる。

それ以後の、日本内地での教師生活でも、これほど論理的に考え、それを堂々と表現する生徒に出会ったことはなかった。

その日の授業の後で、その生徒は私の所に「さっきは悪いことを質問しました」とわびにきた。ただならぬ事態を心配した同級生から言われたらしかった。しかし私にどんな対応ができただろう。ただ一言「不問に付す」と言っただけで、みずからをごまかす外はなかったのである。

台湾は今生まれ変わろうとしている。どうかその名の通り、「フォルモサ(美麗島)」として末永く栄えてほしい。かつての罪深い支配国の一人として、そう
願わずにはいられない。                             1996 秦一則
         


「勇気ある質問」後書き

秦先生のこの一文は、発刊後すぐ反響を呼び、有志者によって中国文に翻訳され、そのコピーは広く校友たちの子や孫たちに配られた。若い中国語世代はこの物語をどう読み取っただろうか。

先輩の一人が、文集第一冊携えて、日本大分市に先生を訪ねた。先輩は先生にきつくきつく抱きしめられたそうである。相抱擁する師と弟子、教室で論争する師と弟子、共に美しい師弟像である。

私達は座して文明をエンジョイしながらも、敢えて何もなかった昔を、「古き良き日」と懐かしむ。何故だろう?。拙い私見ですが、それは、昔、人々はまともに物を考え、まともに生きていたからではないでしょうか。

ご精読を有難うございました。                      2010.10.17.Kiyoshi 





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ミカド 雑談
2010-09-20 Mon 14:49
                                         作者 Kiyoshi先輩
 
「アジヤの東、日いずるところ、ひじりの君の、現れまして・・・・・・・・・・・
・・・・・代々木の森の、代々とこしえに、仰ぎ祭らん、おおみかど」

名詩ですね。名君、明治天皇誕生日への祝い歌です。全文七五音の句に集約される、優れた韻文とその語呂の良さで、70数年経た今も諳んじています。特に結語の4句は、すばらしいエンディングです。

そして、この詩は、静かな喜びの楽想にピッタリのメロディーに載って、明治節の歌となり、11月3日講堂で子供たちに歌われ、おおみかどに捧げられる。古き良き日の小学校の行事であった。この行事は今も続いているだろうか。歌の方は国語と音楽の良いお手本です。

  

この良い詩、良い歌を習ったのは、八つの時、昭和11年の明治節が近づく日、子供たちは新しい言葉、日本語を習って半年しか経っていない。そして、幸運にも僕たちは日本人だった。

毎日増える日本語で習う素敵な童謡、国語、算数、修身、etc、楽しい幸せな小学生だった。他人はいざしらず、日本文化、日本的薫陶は私の体質に完全にフィットした。さて今日は明治節の歌を、習う日だった。

先生は先ず地図で僕等に「シナ」を見せた。それは、満腹して動けなくなったブタの、ブクブクのおなかみたいな形の国だ。先生はシナばかり指差して「アジヤ」を教える。何故シナがアジヤなの?

次は東。「東はどっちか?」、聞かれて皆は毎朝の、日の出の方向、それは丁度黒板の方、を指した。「いや、地図の上の東じゃ、いいか、右が東だ」。「アラ、本当、日本はシナの東だ」。そして日本の東は大きな海、日は海から昇る、だから日本は日いずる国、シナは日が沈む国。あの時は、どの国も日出ずる国というわけを知らなかった。「我は日いづる国」、と信じたからには、その矜持は何時までも持ってもらいたいものですね。

次、「ひじりの君の現れまして・・・」。先生は「ひじり」をどう説明したか、僕は分ったのか、もう覚えてはいない。ただ、なんで、天皇様が「君」なの?「現れまして、はお生まれになった事だ」。僕は神出鬼没の鞍馬天狗の事をを考えていた。後日習った事だが、「天皇様がお亡くなりになったら、おかくれと言うのだ」、現れたり、隠れたり、鞍馬の天狗様の、かくれんぼみたいで、天皇様はオモシロイね。

日本語習いたての一年坊主には、明治節歌文句の方はもやもやだったが、幸い語呂がいいので、覚えやすかったようだ、歌の方は、歌い易い、覚え易い、歌いたい、の名曲三要素のおかげですぐ覚え、当日は講堂で力いっぱい歌い、一代スーパーミカドの「現れまして」をお祝い申し上げた。

歴代天皇の中で明治天皇はよく、国民の敬愛を集めて、天皇の尊称である「ミカド」や「帝」で称呼された。例えば「明治大帝」。幕末の多くの日本人と同じくみかども外国人嫌いであったが、目はよく遠くを見ており、「よきをとり、あしきをすてて、・・・・」の有名な御製を国民に教え、挙国一致「追え、追いつけ、追い越せ!」のキャッチフレーズにのって文明開化を推し進め近代日本の礎を築き、日本の夜明けが訪れる。

みかどの崩御後。日本一のみかどには、日本一のやしろ、をと、国民は挙って明治神宮の建造にと、ボランティアの手で、17万株の樹が、代々木の原に植えられて、世界一の人工の森「代々木の森」が生まれる。一つの植物と鳥類の生態が築かれた。神宮の顔である大鳥居には、我ら台湾のひのきが貢献した。

1977夏8月の或る朝、私はこの代々木の森に、来ていた。ミカドのか、或は鬱蒼の森のか、とにかく神域の霊気が辺りに漂い、ひんやりと襟を正す。翼を傷めたカラスが一羽、飛べないで鳥居の前で鳴きながら右往左往していた。政府の高官を乗せてきた運転手さんと一緒にしばしカラスを見守っていながら、何故台湾にはカラスが住み着かないのだろうかを考えていた。それは有り難い事だが、そのわけには興味があった。

やおら立ち上がり、じゃりの参道を闊歩し、手洗いをし、大鈴を鳴らし、エンディングは嬉しい大団円、赤い袴白い上着、美人の巫女さんの白い手から、明治大帝のお守りを頂いて、鬼の首でも取ったかの様に、喜んで凱旋した。

同日の晩、奇しくも私はミカドに来ていた。でも代々木のミカドではなくて、東京赤坂のキャバレー「ミカド」である。代々木の神のお導きか?東京在住の中学同窓の、私が社交ダンスの教師と知っての好意である。

広い玄関の隅の広告塔のてっぺんに、ミカド(皇室)の象徴である菊の紋章が輝いていた。さすが民主時代だなと感慨あらた。「天皇とキャバレー」!戦前なら不敬罪で豚箱行きだ。

二階からダンスホールを眺める。さすがは、東京一のダンスホール、台湾のそれでは見られないものを見た。
①初心者はフロアの中央部に集まって踊り子達と練習、中上級者達は、フロアの四周で、正確なLOD方向線に沿って、ステップを繋ぎ踊っていた。全体のダンシングの流れがハッキリ見えた。
②踊り手たちは、皆ちゃんと世界に通用する、正確なボールルームダンスを習得しておった。得体の知れないステップは見受けない。
③バンドの演奏も選曲も申し分なく一流であった。どの曲もダンス意欲を誘う。

ひるがえって、台湾ではどうだ?。この国ではダンスの先生は免許は要らない。誰でも先生だ。勝手な自己流ダンスを教える、もちろん世界には通用しない。生徒さんが災難だ。それでも、看板には「国際標準舞」と銘打っている。ボールルームダンシングのことである。「先生、このステップの名は?」、「?!」英語不通では何もいえない。英語出来なければ、ダンスは教えられないのだ。それでも台湾のダンス先生は、我こそは、お山の大将オレ一人。もうダンスの戦国時代である。又この国の先生は、ブルースを知らない。不思議だ。又「LOD」も知らない、それ何? なら「方向線」でいこう、やはりワカラン。もう話しにならん。語るに落ちる。ヤメタ。

私は不運にも、お盆の日にミカドに来た様だ。レギュラーのダンサーたちの多くが帰省し、残れる踊り子も外の客にとられ、連れて来られたのは、短大在学生のひよっこ一羽、これはさしずめ、お座り嬢か、お話嬢かな。もちろんダンスはだめ。フロアは軽快なルンバリズム、私はムズムズして来た。ブルースを一曲リードして見よう。

「長崎は今日も雨だった」が流れた。困った様な顔の彼女の手を取って、フロアへ下りる。ダンスとは歩く事、何時ものように歩けばいい。が彼女は案の定、足ばかり見て、神経は脚に集まり、歩くという簡単な動作を間違える。バンドの演奏がいいし、カラオケ好きだから、私は声を出し「東京は、今日も雨だった」と唄い変えて彼女の頭をあげさせた。私の歌声に気を取られ、硬い体がほぐれ、正常に歩き出した。

     

短大嬢はお行儀よくお辞儀をし、お行儀よく礼をいい、僕もすっかり気を良くした。改めて僕は日本にいるんだなと気付いた。

次のダンスを請うかのように、思いがけない曲が流れた。ニュウージーランドマオリ族の別れの歌「Now is the hour.」。これは私のワルツの常用レッスン曲だ。オペラファンなら誰も知る、マオリ族出身の、世界の歌姫、カナワの嘗て此れを歌うを聴いてすっかり参ってしまった。

     

僕は再び短大嬢に、もう一曲を請い、表情の変われる彼女を、ただ一つのステップ「リヴァースターン」で彼女に全曲をマスターさせた。

今一度、彼の人とヴェニーズワルツでフロアを疾走したい。そこは嘗て私の世界だった。
今一度、ラケットをもって、テニスコートに立ちたい。あの喧騒、叫喚、歓笑は
      嘗て私のものだった。
今一度、教鞭取って教壇に立ち、生徒たちを煙に巻きたい。あの子もこの子も
      嘗て私の友だった。


        「人間を  八十二年  夢の跡」   Kiyoshi 2010




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