新高山百合
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日本語世代迫害の悲劇と「幌馬車の唄」 
2010-05-29 Sat 18:25
日本の皆さん

まず皆さんとの縁を結んでくれたネットの力に感謝します。ブログの最初の文章を発表した後、意外にも台南在住の82歳の日本語世代「Kiyoshi先輩」からの連絡がありました。自分の思いを大勢の人に訴えたいのだそうです。

Kiyoshi先輩が送ってきたこの文章は、感動の涙を誘います。本当に82歳かと思います。旺盛な求知精神は若い人に負けません。「これぞ!台湾魂と日本精神!」と感じさせます。そこでそれを下に掲げます。

Kiyoshi先輩の文学素養は高く、台日両国の戦後生まれは失ったものは本当に多いなと実感します。また彼は今後純文学作品もここで発表してくれるそうです。これは光栄なことです。台日戦後世代にとっても歴史を学ぶとても好いチャンスとなることでしょう。



非情、幻の「幌馬車の唄」


「流行歌」と言う言葉をあまり聞かなくなった。死語にでもなったらしい。替わって耳にするのは、演歌、艶歌、歌謡、カラオケ、ポップス、ロック、ディスコ、ツィスト、ジャズスイング等々、自分の知らないカタカナ語音楽も沢山ある。その何れのジャンルからも、古き良き遠い日に、私達が聞いた流行歌や抒情歌の、詩情あふれる豊かな韻文と曲想を唄う甘美なメロディー、美しいハーモニー等の音楽要素はあまり味わえなくなった。  
   
             「流行歌  昔の光り  今いずこ」

大衆音楽も諸々の事物同様、時代の波に乗り、押され、世相を映して「進化」して来た。 その進化した楽しくない音楽を耳にする度に私達は呼び起こされる様に遠い日に聞いた調べの数々を思い懐かしむ。若者層が熱狂する或るジャンルの音楽は、文明進化とは対蹠的に文化退化の様相を呈する。そして私はその不可思議不可解な音の進化についていけない老朽した自分に憮然とする。あまりヤング達の音楽に悪口ばかり叩いて、顰蹙を買いそうだが、ここに敢えて進化の頂点を極めた若者たちの珍妙奇天烈な、よくテレビで見せつけられるコンサートなるものを観戦してみよう。

ロックバンドのコンサートライブである。 ステージの人達は一応 アーチストと呼ばれている。 つまり芸術家である。その芸術家は一見 ホームレス かと見紛う コスチュームで現れ、つかんだマイクにわめきながらステージを所狭しと闊歩する、何かをわめいているのだが聞き取れないし、又観衆のミーハー達は聴こうともしない。 一方バンドはボリューム全開、大音響の中で観客席のミーハーは芸術家の妖気に当てられて立ちっぱなし、両手に蛍光棒を握ってバンザイのサイン、左右に揺れて催眠にかかる。不思議な事に、ミーハーちゃんの蛍光バーの動きが芸術家の歌うリズムと一致しない。いやはやこれはコンサートなんてものではなく、音響祭りである。この轟音会にメロディーやハーモニー等のじゃまものは不要で、要るのはリズムと音響だけでよい。また字幕に現れた歌詞たるや、まるで中学生の作文。全く新世紀初頭というのに既に垣間見る世紀末新音楽シンドロームである。

物心ついてから、保育園で新しい言葉(日本語)で、わらべ唄を習い、歌い、小学校では小学唱歌に親しみ、我が家では姉のなかよし達の女学生愛唱歌や叙情歌の数々にに聞き惚れ、そしてこれとは別に、ラジオやレコード屋の店頭で違ったジャンルの大人達のいわゆる流行歌にも耳を傾け、歌文句の分からない、異質なメロディーにも共鳴した。これらの品位の高い名詩名曲、言わば文学と音楽から成る歌文化が幼年期の大事な人格形成の一端である情操教育にどれほどプラスした事か。若し私が幼少から、現下の奇天烈な音楽の中で成長していたら、今どんな音楽脳に変形されていただろうか?

学びやの乙女、「女学生」、はもう死語になったらしく、今は女子中学生と呼ばれる。その彼女達に「君たち、抒情歌や愛唱歌って知ってる? 」と聞いたら「なに?アイショーカ?ジョジョーカ? それ何? 宇宙語?外来語 ? 」・・・・まさかとは思うが・・・。歴史は繰り返すと言うが、古き良き日の音楽復古調の兆しは先の先の事だろう。

以上、若者たちの音楽に散々言いたい放題のケチを申し、些か反省気味ですが、然し小生は少年の日から今の老境に至るまで、遠い日の良き歌謡、流行歌、また60年代、 次々と海を渡ってきたあの素敵な欧米ポピュラーソングの超ファンで、最近、パソコンから無尽蔵に古き良き映画や流行歌、欧米のポップスを映像付きでダウンロードして楽しめる様になって大喜び。

             「Youtube  目覚しきPC  インパクト」

上述の、当今の音楽に対する私の見解(偏見かも)にはクラシック音楽は含まれてはいません。数世紀このかた、クラシックは厳然としてその気高い輝きを失いません。 正に天の声であり、神が天才を借りて人類に与えた永遠の遺産です。無形遺産なるが故、風化されたり、破壊されることもありません。輩出する世界の演奏家達によって、永遠に引継がれて行きます。

ところで、クラシックも現代音楽、近代音楽、前衛音楽・・・・等に進化しました。 その何れもが不勉強な私にとっては、不可解な哲学です。幸いにしてこれ等を理解しているのはほんの一握りの人々。肩身の狭い思いはしません。クラシックファンもほんの二握りの人々だけ。クラシックの普及に努めようなんて大それた考えは無い。独りで楽しむだけ。クラシックを主に楽しむ日々ながら「クラシックこそ音楽」とのぼせ上がってはいけない。そんなクラシックの知ったかぶりは、所謂「何とかの一つ覚え」。今や私はあらゆるジャンルの懐メロカラオケ老人。そしてカラオケ屋で聴きたくもない他人の唄に神経を逆撫でされる悲痛も無くなり、Youtubeを相手に声帯を磨いている。 元気のみなもとである。

             「広瀬川   流れる岸辺  さぁカラオケ」

小二の年(1937)、日中戦争勃発、だが九つの私が関知する事ではなく、学校も町も至って泰平、学校で、家で、新しい言葉、日本語を習い、覚え、使い、学校が面白くて、楽しくて、幼年期の大事な「人格形成」が薫陶されていった。学校では嬉しい一大事が私を待っていた。 担任の先生が一年生の時の、聞き辛い日本語を話す台湾人老教師から若い日本人の女教師に変わった。

憂愁の翳りの漂う楚々とした容姿、きれいな澄んだ標準語で子供たちに話しかける授業。私は日に日に先生に傾いて行った。先生の美しい日本語を音楽と聞き、覚え、知識を貰い、先生の歌う芸術の香り高き唱歌を天使の声と聴き、わが生涯の良き日々であった。思えばその時私は先生と同じく、日本人であった。 この事は、他人の思惑はいざ知らず、私にとって日本人として生を享け、今更ながら、日本教育と日本文化の薫陶の中で成長した幸せを噛みしめる。祖国は台湾、そして日本は私を生み育んだ懐かしい母国である。私達小二の級友達は先生にとっては「植民地のガキ」共ではなく、皆「あたしの児童」であった。

              「先生は  夢二美人画  から出て来」

その先生がある日突然 「放送局へ歌いに行く、今日から練習しますよ」と 私を驚かした。 ええっ!どうして僕が? と反問したかったが何も言えなくて「はい」と命令を受諾した。 課題曲は ? と見ると、なあんだ、幼稚園児わらべ歌ではないか。第一節の、歌文句を見てがっかりして鳥肌が立った。 「お山のお猿がンキヤッキヤッと鳴いた」である。 ご丁寧にもキヤッの前にンが付く。そして歌い終わるまでにキャッキャッを22回も鳴かなければならない。 歌覚え、音階音感皆問題ではない。リハーサルもそこそこに、結局放送局の二階の密室に立たされ、ピアノはあったが伴奏なしのアカペラで22回キャッキャッを鳴き続け、ほうほうの体で帰ってきた。恥ずかしくて誰にも言えない。家族にも。だから今に至るも誰も知らない。

その頃海を渡ってきた新しいワルツ調の明るい軽快な流行歌が巷のあちこちのラジオや蓄音機を賑わしていた。歌詞こそ聴き取れなかったが、曲想も詩文もよくメロディーに融け込んでいる筈だと確信した。いい歌だなあと聞き終わった時には難なく覚えてしまった。 或る歌が、覚えやすい、歌い易い、歌いたい、と三拍子揃えば、もう「名曲」であろう。メロディーだけは難なく覚えたが、歌文句をとても知りたかったが針音と一緒に出て来る歌声から、歌詞の判読は小二の私には難しかった。耳を澄まして僅かに聞き取れたのは「・・・キミ・・・ホロバシャ・・・」だけで私は勝手にホロバシャの歌と名付けた。「バシャ」は恐らく町中をパカパカ行く「馬車」の事だろう、そして「ホロ」とは何者ぞ、或いは、何物ぞ?。後日、曲名は「幌馬車の唄」と判明した。 私が先生から放送局行きの事を知らされたのがこの頃であった。私は先生に「幌馬車の歌」を「お山のお猿」の代わりに、放送局で歌わさせて下さい、お猿のンキャッキャッは嫌だと喉もとまででかかった。 先生の愛弟子たる自分の、先生への甘えから、こんなとんでもない発想に、行き着いたのだが、九歳の、副級長の、一応の分別がそれを押し止めた。「小学生が放送局で流行歌? !」、言語道断!である。 

             「幌馬車や  人の思いを  乗せ走る」

歌詞が分からないままハミングで歌っていたが、「幌馬車の唄」は短命であった。日中戦争は、拡大の一途を辿り、数年後には太平洋戦争に突入した。流行歌は影を潜め、替わって戦時歌謡が巷に溢れた。そして終戦。所謂「懐メロ」が音楽産業の目玉商品となった。やがてオーディオテープやビデオテープの進出に便乗して、大正から昭和までのリバイバルソングは雨後の筍よろしく林立するレコード屋の店頭を賑せているのに、たった一曲、私が密かに待っていた「幌馬車の唄」は姿を現さなかった。あの流行歌を業者は何故認めないのだろう?美意識は無いのか?東京のレコード屋で探してもらうもやはり無い。とうとう「幌馬車の唄」はレコード産業から見離されて、この世から消えた。「死歌」として葬り去られて、「幻の唄」となった。

私が此れほどまでにこの歌に執着するわけは、この歌の詩は恐らく感動的な韻文で詠まれていると確信し、それを知りたかったし、どうしても、歌いたかった。またその軽快なワルツ調を私のヴェニーズワルツ(ウインナワルツとも)のダンシング教材曲に欲しかった。多忙に紛れて、まぼろしの唄はあっさり脳裏から消え去って30余年、或る日レンタルビデオで見た映画の中で突然「死歌」であった筈の「幌馬車の唄」が耳に入った時は全くのオドロキであった。ドキドキで聴いた。

まぼろしの 「幌馬車の唄」 を復活させたのは1989年、ヴェネチア映画祭で見事 グランプリ に輝いた台湾産名画 「悲情城市」である。 台湾の映画史に輝く傑作である。物語は基隆の海を見下ろす山上の町、「九份」、ノスタルジックな町並みで今や観光名所のこの町に住む或るやくざ一家の暮らしを通じて、戦後約五年間の台湾の戦後史を描く。この五年間といえば 「二二八」 の始まりと終わり、そして続く新たな弾圧殺戮、世に言う「白色テロ」の幕開けである。 台湾の精英達は片っ端から無表情に抹殺されて行った。終戦によって50年にわたる日本支配から解放された我々が「祖国」だと思い込んでいた新しい統治者に弾圧される悲劇を描くこの映画の中で、「幌馬車の唄」 は非情極まるシーンに使われていたのだ。 それを涙して凝視する私の憤懣やるかたない悲痛の思いを誰ぞ知る。あゝ兄上よ、あなたも「幌馬車の唄」を唄い、「幌馬車の唄」に送られて31の青春を逝ったのか ? あなた達はあまりにも中国人の体質を知らなすぎた。甘かった。日本時代じゃなかったのだ。

今ここにその悲痛極まるシーンの一部を反芻しょう。四畳くらいのセメント塗りの窓のない部屋、出入り口が一つあるだけ。よれよれの軍服に、あみだかぶりの軍帽、長い銃を担いだ衛兵が一人、出入り口を塞いでいる。若い青年が四人、監禁されている。椅子はない、四人ともセメント塗りの地面に蹲っている。カメラは彼らの強張った慄きの表情を捉える。と突然二人の名が呼び上げられ、若者たちはハッと弾かれた様に顔を見合わせる。続いて「開庭!」と、鋭い中国語の叫びが響く。衛兵が二人を外へ連行する。残された二人、何かを待つように、微動だにしない様に見えたが、いや実際には微かに震えているのだ。しばしの静かな、沈黙の空気中から、微かにこっそりと歌声が漂うてきた。よくみると残された二人がぼそぼそと何か歌ってるのだ。テレビの画面に聞き耳を立てていた、私は我が耳を疑った。何とそれは「幌馬車の唄」ではないか! 全く予期しないことだった。一番の終わりから二番にかけて、歌詞がはっきり聞き取れた。 歌の終わりを待たず、突然、銃声が二つ、辺りをつんざいた。 二人の歌声も止んだ。

             「まぼろしの  幌馬車の唄  無情に消え」

上記の監房の衛兵のよれよれの服装から私は、60年前、我々中学生は町の目抜き通りに整列させられて上のような兵たちを迎えた忌まわしい、屈辱的事件を回想する。その時我々は不安と期待の思いで「祖国」を待つていた。其処に現れたのは、敗残兵の行列だった。戦時中新聞雑誌、ニュース映画で教えられた通りであった。そのうえメディアも知らされなかった新鮮な光景はショッキングなものであった。兵が一人で天秤棒の両端の大きな籠の中に大型炊飯具、釜、鍋等をを詰め込み、担ぎ、天秤棒を軋ませながらこれ等行列は無表情に、無気力に、無秩序に我々の前を去っていった。被支配者への無視か? この意外な、「祖国」の姿を見せ付けられ、我々は等しく、超幻滅の大悲哀に暗澹たる胸のうちだった。そして二年後、これ等無表情、無気力、無秩序だった烏合の兵達は突然牙を剥いて二二八の殺戮者に変身するのであった。

先の50年、統治者は超一流の教師やエンジニヤを送り込み台湾を開拓経営養い、Formosaに育て上げ、膨大な有形無形の資産を残して、引揚げていった。後の50年、 資質では住民に十倍、百倍も劣る統治者はFormosaを食い物しに上陸、 資産を強奪、精英を殺戮した。正に是「悲情城市」である。私の知る限りでは、昭和初期日本で、泣く子も黙ると恐れられていた特高の赤狩りで、検挙弾圧された共産主義者や社会主義者等は少なくないが、皆拷問され転向を強制されて社会復帰を果たしている。処刑されたのはたった一人であった。無理もない、その人はスーパースパイだったから。かの国では国民一人を法の名に於いて抹殺する事は実に大変な事なのである。嗚呼、悲しみの台湾よ。

私が幼い日、聞き惚れた 「幌馬車の唄」 を映画「悲情城市」の侯監督が彼の作品に取り入れ、大賞を勝ち取った事を、我が事の様に喜び、頓に彼に「同好」の親しみを感じた。と同時に色んな疑問が、次々に湧いて来た。

        先ずは「幌馬車の唄」全三番の詩を詠みましょう。
             
        夕べに遠く木の葉散る  並木の道をはろばろと
           君が幌馬車見送りし  去年(こぞ)の別れがとこしえよ

        思いで多き丘の上(え)で  遥けき国の空ながめ
           夢と煙れるひととせの  心なき日に涙わく

        轍(わだち)の音もなつかしく  並木の道をはろばろと
           馬のいななきこだまして   遥かかなたに消えてゆく


この詩から推す限り、之は男女の別離の感傷に過ぎない。場所はといえば、「果てしない広野に何処までも続く並木道を揺れ行く幌馬車・・・・」から察するにそこは満州の広野だと思う。そう言えば、この歌が出た昭和の初期は日本が満州開拓に力を注いでいた頃だ。歌はこの開拓の波に乗って満州に渡った若者たちが新天地に咲かせた恋のロマンスだ。 詩が唄う、「去年(こぞ)の別れがとこしえよ」、「夢と煙れるひと年の、心無き日に涙わく」。悲しくも甘酸っぱいこの単純な恋唄が何故に「悲情城市」なのか? 次々と以下の疑問が湧く。

* 当時40歳にも満たない外省人の侯監督が何故80年前の、この歌を知ってるのか?
* 監督は歌詞の意味を理解していただろうか?
* 囚人達は白色テロの犠牲者だ。歌は白色テロとどう関わっているのか?
* 誰かの啓示でこの歌を採用したのだろうか?
* 或いはそのものずばり、本当に囚人たちがこの歌を歌ったのか?

とにかく、何か有るに違いないと幾多の疑惑を残したまま、これらの事は多忙な日々の中で忘却の彼方へ消え去った。

十数年前、私はどうしてもこの唄のデータが欲しかった。ある日、買い立ての、習いたてのパソコンを前にして考え込んだ。「検索」前の空欄に、URLではなく直かに「幌馬車の唄」とインプットしたらどうなる?。そして「幌馬車の唄」は空欄にインプットされた。さあ鬼が出るか蛇が出るか?考えられる最悪のハプニングは ①パソコン炸裂 ②Hey!You!What's horobasha no uta?③該当する資料はありませんでした。では又どうぞ。…でお払い箱。そして意を決して「検索」をクリックした。

意外や意外、眼前に展開したのは、何と出るわ出るわモニターのスクリーンをいっぱいに埋めて、カラーフルな日本文データーが2頁、3頁へと続くではないか! 今更ながらパソコンの超百科事典的パワーに脱帽する。はやる気持ちを抑え、 画面に食い入り、貪り読む。読み進むうちに、始めの期待に弾んだ楽しい気持ちは何時しか暗く沈みこみ、読み終えた時には、顔面蒼白、滲む涙は、目をつぶれば、しずくとなって手の背を濡らす。煮えくり返る憤激の情、やり場のない憤懣、しばしテレビから目をそらし、天井の一角を凝視する。

Ah! 「幌馬車の唄」は確かに政治犯の監獄内で歌われていたのである。それは刑場へ送られる死刑囚の辞世の歌であり、また彼らを見送る次期死刑囚の訣別の歌でもあったのである。これらの死刑囚とは、もちろん白色テロの凶弾に斃れる同胞の精英エリートたちであった。

インターネットでは一人の台湾作家が紹介されている。 「藍博洲」、1960年苗栗生まれの客家人、輔大仏文学部卒。台湾近代史の発掘に携わる。 五十年代のテロの生き証人を訪ね歩き、膨大な証言資料を収集する。 此れまでに「日拠時期台湾学生運動」、「尋找被煙滅的台湾史」、等の著作有り。

私は「幌馬車の唄」に纏わる台湾の悲しみ、私の悲痛を書こうと思い立った。そして2004年の暮れからパソコンに向かってキーを叩きだした。何処に投稿するでもなく、止むに止むれず、ただただ書きたかった。 2004.12.11、立法委員(国会議員)選挙の晩、私はキー打つ手を、しばし休めてテレビの選挙公表を見ていたら、苗栗市の落選リストの中に、私が今の今キーを打ったばかりの藍博洲の名を見出して全くびっくりしてしまった。私は藍氏が私にこのドキュメンタリーを書く様に示唆したのだとすっかりミスティックな暗示にかかってしまった。いたくテレパシーを感じ取って、私はそれなら早く完成させようと先を急いだ。「急げ幌馬車!(昔こんな曲名の流行歌もあった)」。台湾に欲しいのは藍氏のような人だが、汚れた選挙戦に初めから勝算はなかったであろう。今後の巻き返しも夢であろう。

藍氏は上記の数冊の著作の外に、1991年、単行本「幌馬車の唄」を出した。此れは一人の男、熱血革命児、鍾浩東、の逮捕、監禁、から銃殺までの生涯を、夫人の回想で綴った感動の力作。ノンフィクション記録文学で、その年の「十大好書」の第一位である。今年(2010)又増訂版が出版されたと聞いている。侯孝賢監督はこの本をモデルにし、「悲情城市」に続いて映画「好男好女」を世に出した。

鐘浩東:客家人、1915~1950、持って生まれて反抗心旺盛、日本明治大学卒。学成りて帰国すると思いきや、同志と大陸へ渡り抗日の行列に加わる。終戦の翌年帰台、鮮やかな変身を見せ、基隆高中校長に赴任。学校経営でも手腕を見せたが後が悪い。共産党加入、剰え地下刊行物「光明報」発行、同僚学生にも累を及ぼす。全く「無驚死の穏死」。当然一網打尽、35の短い生涯を終える。

ここに藍氏のドキュメンタリー「幌馬車の唄」中の一部を、下記に転載する事を、お許し願う。

「・・・・・・・・校長は静かに同房の獄友一人一人と握手を交わし、それから憲兵に従い、彼が最も好きだった大学時代の流行歌、哀愁こもる「幌馬車の唄」を歌いながら従容として監房を後にした。すると校長の足に繋がれた足枷の鎖を引きずる地面との摩擦音を伴奏に、校長の歌声は自然に大きくなり、見送る獄友を誘発し監房の大合唱に変わった・・・・・・」

藍氏は言う「私は歴史学者ではありません、私が発掘したいのは、台湾の為に働きたいと願いながら白色テロの凶弾に斃れた数千人の台湾人、彼ら一人一人の足跡なのです」。

幌馬車の唄の二番を思い出しましょう。 「思い出多き丘の上で、遥けき国の空眺め、 夢と煙れるひと年の、心なき日に涙わく」これぞ 死刑囚の日々ではないか!彼らは来る日も来る日も激痛にも似た郷愁に心身を蝕まれていったであろう。滲む涙、如何せん。今ここに先述の私の幾多の疑問は解明された。「幌馬車の唄」は非情な死の訣別の歌だったのである。疑問解明の後、残されたのは何か? やり場の無い悲憤、深い悲しみ、そしてどうにもならない老境の虚しさと無力感・・・・等思いは千々に乱れる。

苦心の末、やっと東京で「幌馬車の唄」のCDを探し当てた。歌手は台湾には馴染の薄い青木光一。奇しくも彼は満州生まれの奉天(遼寧)育ち、その満州ッ子が恐らくは満州で生まれたであろうこの「幌馬車の唄」をしんみりと歌う。 聞くだけのCDでは物足りず、私はそれに 「幌馬車と並木道」 の入った映像と私の歌声を合成させてDVDに作り直してつれづれに、独りしんみりと、亡き我が兄を、数人の同期生を、幾多の先輩たちを、そして数千人の若者たちを偲び、唄い、聞いている。「幌馬車の唄」は台湾人が歌う英霊たちへの鎮魂歌である。。この歌を歌うに相応しい集まりの時、皆の者が合唱できれば私にとりましては望外の悦びでございます。

            「 今唄う   幌馬車の唄   英霊に 」

補遺:最近(2008)私は遂にYoutubeで「幌馬車の唄」のビデオをキャッチした。昔の女性歌手の鼻にかかった甘い声で三番全部を唄ってくれた。イメージはオンボロ幌馬車一台が田舎道をガタゴト駆けて行く。その乗客の一人を見て私はオドロキ、胸を熱くした。名優佐田啓二である。「君の名は」の佐田啓二であった。若くして夭逝した佐田啓二であった。モノクロビデオでそれだけに掘り出し物だ。このビデオは私の取って置きのコレクションとなろう。Youtubeのパワーに脱帽。

       「千切れ雲 茹だる五月の 空高く ふわりふわりの 独り旅かな」  







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