新高山百合
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南十字星ロマン / 1.プロローグ
2010-12-17 Fri 19:00
                                         作者 Kiyoshi先輩

1940(昭15)夏。「ミナミジュウジセイ」という言葉を初めて聞いた。
それは小五の年の或る未明、 我家の前を全幅重武装で行進する関東軍と思しき精悍な兵士達の口からであった。

時正に太平洋戦争の前年で、小五の僕のあずかり知らない所で、風雲急を告げていたのかも知らないが、 町も学校も泰平の世であった。

台湾台南市西門町の大舞台映画館の北側の商店街に僕の家が在り、町の喧騒が好きだった僕は、道路に面した二階の窓ぎわを自分の生活の場としていた。

夏休みのある早朝未明、 町は未だ深い眠りの中にあった。私は夢うつつに遥かなる大勢の男達の、重みのあるバスの利いた歌声を聴いていた。歌声は私を眠りに誘い、 又うつつに戻しながら、近づいてくる。

そのうちに歌声とは別の、リズミカルな音声が加わり、 歌声はそのリズムにリードされながらますます近ずいて来る。私はまどろみから我に返り目を覚ました。

大勢の男達が靴音に合せて歌っているのだと分かった。歌声は家の南側のロータリーの方角からだ。窓の欄干から体を乗り出してその方角を見つめるも、闇の中に人影は見えない。が歌声はハッキリ届いて来る。 「タイヘイヨウ」とか「ソラ」とかが。

夜間はもともと騒音が少ない上に、 音波は昼間とは反対に、 地面に向って屈折するので、エネルギーを保存しながら、 遠くまでハッキリ伝わる。

かつて、駅から6キロ余りも離れた、夜の「安平」で台南駅の汽車の汽笛と、 蒸気の噴出音を間近に聴いて、 汽車が勝手に駅を離れて安平に猪突猛進して来たのかと錯覚してびっくりした。

その頃、台南安平間には、台車と呼ばれる、 魚温に沿って敷かれた狭いレールの上を、 手押しで走るトロッコが通っていた。 人夫が手押しで10mも走れば惰性で50mくらいは走った。 おんぼろバス、運河を走るポンポン船と並んでこれは第三の交通手段であった。

黄昏どきともなれば、ジャンクが褐色の帆を揚げて運河を下っていった。 赤い夕陽が帆の影に、見え隠れについて行った。 古き良き、 府城(台南別名)安平の、 のどかな風物詩であった。  「たそがれて  揺れるジャンクの  夢の影」。

こうして歌う忍者群の姿は見えなくても、 歌声は刻々と迫って来る。 そのうちに、 ロータリーを迂回する歌声の正体が、 闇の中に薄黒く幻の様にその輪郭を、 浮かび上がらせた。 

それは一匹の長い黒い龍にも似た縦隊で、龍の背中全体にたてがみの様に歩調に合せて波打っている棒状の突起物はそれが銃であることが難なく分かった。

竜の頭が「大舞台」の手前にたどり着いた頃にはやっとこの縦隊の全貌がハッキリした。 全幅重武装の、兵士と軍歌と軍靴の、オンパレードだ。 しかも聞き慣れない短調の、元気と哀愁が同居したような軍謡を伴奏に。こりゃみ物だ、聴き物だ。僕はすっかり目が覚め、そして待った。

半袖のカーキーの南方シャツの上に沢山の装備を背負い、 戦闘帽の縁全体にカーキーの日除けの布が肩まで垂れ下がり、これは紛れもなく、 南方作戦軍装だ。 一体、南の何処で何が起こっているのか、小学生の私が知る由もなかったが、 平和な町にも緊迫した空気が漂い始めるのを感じた。

戦闘帽のつばの下には赤黒い剽悍な面構えが覗く。 台湾の護り、精鋭鋼鉄の軍団だ。 軍靴は重々しアスファルトを踏みつけ、そのザクザクしたリズムに合わせて、数年後知った曲名の 「台湾(派遣)軍の歌」 が歌われた。 そして今度ははっきりと「ミナミジュウジセイ」を聞き取った。

    

「ミナミジュウジ」 は「南十時」か「南十字」だろう。 所が「セイ」は何者か、或いは何物ぞ、 どんな漢字を当てるのか分らなかった。 先に聞き取った 「タイヘイヨウノソラトオク」からは、赤道直下、輝く太陽に映える青い太平洋ばかりが連想されて、とても「セイ」 を夜の物とは判読出来なかった。 今思うと、何とまあオレは鈍感な、と呆れる。

軍団は西門町の端から東に折れて明治町に入る。 目指すは駅か、 第四部隊(現成功大学)か。 この兵団は何処の戦線へ送られ、 幾人生還するのだろうか。 後日 「台湾軍の歌」 を聞く度に彼らの事を思い浮かべる。 意気軒昂と唄われながらも、短調の哀感にじむこのメロディーに兵の宿命を訴えて、一抹のセンチメンタリティーを拭えなかった。 

あれから37年後(1977)、東京の中華レストランで夕食をとっていたら、 突如、隣の部屋から男達の 「台湾軍の歌」 の斉唱が響いてきた。 あゝ、この人達は、もしかしてあのときの・・・と懐かしさがこみ上げてきた。 よくぞ生きて帰って来ました、 お疲れ様でした、と彼等の今在るを喜んだ。 同じツアーのメンバーは誰もこの歌を知らない。 独り私が懐旧の喜びを味わっていた。

「ミナミジュウジセイ」が何物か知らぬまま、 翌年は太平洋戦争開戦、次年は晴れて二中生に昇格、 緊迫する時局と学業に追われて、ミナミジュウジセイの事はあっさり忘れ去った頃、 巷の流行歌を戦時色一色に塗り替えた軍国歌謡の中に 「南十字セイ」があちこちに復活していた。 例えば:

「台湾軍の歌」から「太平洋の空遠く輝く南十字星・・・・」
「ラバウル小唄」から「椰子の葉陰に十字星・・・・」
「轟沈」から「昇る朝日に十字の星に・・・・」
「戦友の遺骨を抱いて」から「友よ見てくれあの凪いだマラッカ海の十字星、夜を日に次いだ進撃に君と眺めたあの星よ・・・・」等であった。

    
    
    

いくら鈍感な僕でも、 「セイ」の歌が多ければ、セイの正体が分ってくる。 セイは実は星座だったのだ。 情報乏しい時局がら、知りえたデータはと言えば、 南十字星は南半球の星座、 十字だから星数は最小4つだろう、 南太平洋に散らばる戦場の兵士たちが夜毎眺める星、台湾からは見れない星、 位のものだった。

幼少から夜空の宝石は、 神秘とロマンの幻だった。そして有りながら見れない星はいっそう見たくなる。 彼女、十字の星は、神秘のヴェールに包まれて私を誘惑魅惑しだした。 「見たい!」 という強い憧れを持ち始めるも、非常時局下、一人の中学生ののんきな願望が叶う筈もない。 そして・・・・・

そして、50年後(1994)の或る夜、 私は国から南へ一万キロ余、最果ての南の地で、 頭上にミスティックにきらめき輝く十字の星を、感無量の想いで凝視していた。 眼中に温いものを流して・・・。「我が君よ 待つて暮らして 五十年」
               
                                     1.プロローグ 完。続く。




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